誰にも言えない

誰にも言えない

テーブルの上に置かれたトランジスタラジオからにぎやかな声が流れてくる。母とふたりでよく聞いていた。いまは家のなかの静けさがつらい。夜更けの病院でも、母の寝息を聞きながら、音量をしぼって聴いていた。ラジオは母のやさしい友だちだった。 Nさんは独身で55歳。他に兄弟もなく、ずっと父母と三人で暮らしてきた。経理畑を歩いてきた父(89歳)は「まじめだが、家庭にもなじまない変人」とNさんはいう。そんな父と息子の微妙な関係は母Tさん(享年82)を軸にしてバランスがとれていた。その母をなくしたばかりだ。

高齢の父母に忍び寄る病

父は数年前から認知症の症状が現れていた。散歩の途中で買ったカップ酒を飲み路上で倒れたと、搬送された病院からの連絡を受けたのは、母の病状が悪化する数週間前のことだ。 検査によると、長年にわたり愛飲していた酒の影響もあり脳が萎縮しているらしい。うつ病も知らぬまに進んでいた。 一方、母は数年前から、下腹部に違和感があり、どうも具合が悪いと父に話していたそうだ。しかし、その話は父から息子に知らされることはなく、後日、母の口から聞くことになる。

病院嫌い

Nさんが母の異変に気づいたのは2年前(平成19年)の5月のこと。母は夜中に何度もトイレに起きるようになっていた。それでも、もともと元気な母は家事もしてくれているし、それほどの大事とは思わずにいた。6月になると、フトンで寝るとどこかに痛みが起きるのか眠れないという。Nさんがイスを並べて簡易のベッドを作ってやり、そばで添い寝をすると安心して、母はうとうと眠った。7月に入ると、さらに母は頻尿になった。10分おきにトイレに連れて行くと、見たこともない黒く細い便がでた。息子に心配をかけまいとし「痛くはないけど、ただお腹がはり、もやもやするだけ」という。大の病院嫌いの母だが、これは様子がおかしい。検査だけでも受けてみようとNさんが説得しても頑として受けつけない。それにはこんな理由があった。母の実母は、くも膜下出血で病院へ運ばれたその日に亡くなり、妹も入院先の病院で亡くなっている。それで母にとっては、病院へ行くことは「死」に近づくことを意味していたのだ。母は辛くても、何とか自分の体をだましながら、決して病院へ行こうとはしなかった。

亡き人を思う心

大阪にある料理店で仕事をしていたNさんの帰宅は遅い。その日、母は息子の帰りを待ちわびていた。お盆に迎えた先祖を送る日である。玄関前のおがらに火がつけられ勢いよく燃えていく。それを三人でじっと見ている。火が消えたのを見計らいそれを跨ぎ、手を合わせると無事に送ることができるそうだ。母は体がふらついてひとりでそれをすることができなくなっており、Nさんが手をとり支えると何とか跨ぐことができた。母は亡き人たちを無事に送ることができ、安堵した。 それから10日後、母は腹痛を訴え、食べることも飲むこともできなくなってしまった。残暑厳しいおりである。しかし頼れる人はいない。Nさんも仕事を休むこともできず、父母を残して出かけた。8月末のある朝、Nさんが職場についたとたん電話が鳴った。母からだった。すぐに帰って来てほしいと言う。慌てて戻ると、あれだけ病院を嫌っていた母が「皆に迷惑をかけるからお医者さんに診てもらうね」と言っている。Nさんに不安がよぎった。
直ぐに救急車を呼ぶが、受け入れ先の病院が見つからずに車中で長く待たされてしまった。ようやくたどり着いた救急病院で紹介された別の病院へ搬送され、そのまま入院となる。ここ数日間、充分に飲食のできなかった母は命にかかわる程のひどい脱水症状を起こしていた。そばにいた父をつい責めたくもなるが、それはいまの父にはムリな相談であることも分かっていた。 「すぐに家に帰れるよね」 と何度も繰り返す母は、寂しそうにみえた。

悲しい秘密

医療現場で日常的に行われる内視鏡の検査は、母にとっては「おなかをかきまわされる」想像を絶する非人間的な行為に思えた。お腹に何か悪いものがあることは間違いなく、治療のためにも検査をするように医師は言うが、母は頑としてそれを拒んだ。しかたなく体力を回復するための点滴だけをする。Nさんが検査をするよう説得できたのは、入退院を繰り返した後の平成20年2月のことである。  ピンポン玉ほどあるガンが、下から10センチほどの所にあり、大腸を塞いでいた。それ以上、内視鏡を内部に進めることができず、いつ腸閉塞を起こしてもおかしくない状態だった。ガンの手術は体力的なこともあり、もはやできないが、人工肛門をつけなければ、激しい苦痛を味わうことになると医師はいう。メスをいれて体を傷つけることは親不孝であると信じる母をNさんは何とか説得して、手術を受けさせた。術後、体にぶら下がった袋を見るのを嫌がる母のために、Nさんはそれをハンカチで隠してやった。 これでひどい苦痛を味わうことはないだろう。しかし問題が解決したわけではない。医師は、あと数ヶ月の命であるとNさんに告げた。このことは、必ず元気になると信じている母には絶対に秘密にしておかねばならない。認知症が進んでいる父に事実を伝えるべきか・・いや、自分の留守中に口をすべらせ母に話してしまうかもしれず、父にも話せない。遠くはなれて住む叔父だけにそっと真実を知らせ終えたときには、苦悩で押しつぶされそうになった。

互いの心を支えあって

「私しかいないでしょう。親を看るのは当たり前のことですよ」とNさんはいう。休職して、母の介護に専念することに迷いわなかった。治療費や当面の生活費は積み立てた保険を使えばいい。近くの訪問看護ステーションから、ひばりメディカルクリニックを紹介されて、両方のサポートを受けながら在宅治療は始まった。父をデイサービスに送り出すと、母とふたりの時間になる。病状はそれなりに安定しており、母は気分が良ければベッドで起きてテレビやラジオを楽しみ、トイレも介助すれば、自力で行けた。何より息子がそばについていてくれることが生きる気力となっていたのだろう。「母は治ったら、めんどうをかけたぶんの借りは必ず返すからねって何度も言ってくれました」とNさん。 12月にはいると母は右下腹部だけでなく、おヘソの中心辺りがもやもやすると言い出した。もしかすると転移が進んでいるのではないかとNさんは不安を覚えた。杉山先生に薬で痛みのコントロールをしてもらっているので、痛そうなそぶりはないが、話しをしていても、よくこっくりこっくりと眠ってしまうことが気になった。先生によると、だんだんと老衰も進んでいるとのことだった。 12月中旬より、母は足元がおぼつかなくなり、ポータブルトイレで用をたすことが多くなっていった。

幸せな笑顔を残して

正月は火鉢で焼いた餅を雑煮にして神棚に供える。Nさん家族は毎年、そうして新年を祝う。息子に支えられて何とか、神棚のある部屋へ向かうことができた母は満足そうに手を合わせた。これが家族で迎える最後の正月となる。 それから3週間後、母はポータブルトイレで大出血をしてしまった。 「もうだめなのかな・・」 これまで気丈にしていた母はがっくりと肩を落とした。ショックを受けたのはNさんも同じだ。悲しみをこらえ母を励まし続けた。  ところが翌日、母は幸せそうな笑顔を見せた。先に亡くなった母、妹、弟たちが見えているようだった。懐かしそうに、その名前を呼んでいる。それから間もなく、母は迎えに来てくれた家族と共に彼岸へと向かった。声をかければ「なあに」と答えてくれそうな、何となくにこやかで、眠っている様な顔だった。 「穏やかで本当にいい顔しておられる。病気が引き金にはなったかもしれないけれど、お母さんは病気で逝かれたのではなく、天寿をまっとうされたんですよ。ほんとにすばらしいことですね」 先生のこのひと言。それは、Nさんが母に「本当に、本当に良かったね」と言ってあげられる唯一の心の言葉となった。

「いまは何も考えたくない」
話し終えたNさんは言った。仕事のこと、父のこと、これからのこと。 「誰にも話せなかったのがほんとに辛かったですよ。あと数ヶ月と言われたときには目の前が真っ暗になって・・」 玄関先に干されたわずかな洗濯物を取り込みながらそう呟く。早春の風のなかで、母の編んでくれた緑青色のセーターがNさんによく似合っていた。