似合いのふたり

似合いのふたり

春の陽光を浴び、いつまでもあきることなく草花の手入れをしている妻。その幸せそうな横顔をぼんやり眺めている。そんな光景があるはずだった。  「男がひとり残るとダメですね。葬式のときも、泣けて泣けて。どうしようもなかった。(ガン発覚から)3年以上ですよ。覚悟はできてると思ったんですけどね・・・」 妻が去ってふた月あまり。馴れた手つきで茶を注ぎ分けながら、Hさんは悲しげに笑った。  人生の大半を会社人として勤勉に働いてきたHさんは定年を前に会社を休み、最後は夫として妻を支えて生きる道を選んだ。  「わたしがなぜそうしたか・・がまんさせたっていうか、妻は自分の希望がほとんど叶えられないできたから。それじゃ、あまりにも可愛そうだし・・」 ふるさとの千葉にとても愛着があった妻が転勤のときについて来てくれたこと、定年になれば、ふたりで千葉へ戻り庭いじりをしたいという夢も、最後に父を連れて房州を旅したいと願っていたことも、どれも叶わずに終わってしまったのが哀れに思えてならない。

始まりは突然にやってきた

平成17年3月、めったに風邪もひかない妻Kさん(享年60)が珍しく熱をだした。数日間、熱は下がらない。軽い気持ちで近くの内科を訪ねると、貧血があるので念のため、レントゲンをとるようにすすめられた。その足で再検査を受け、X線写真をもって戻ると、医師は表情を固くして、すぐに大きな病院へ行くようにという。その日の午後、Hさんは妻からの電話に驚いた。 「胃ガンだって」 平静をよそおう妻が、内心はどれほど心配しているかは想像がついた。 医師は何のためらいもなく胃ガンであることを告げ、「半分とればだいじょうぶでしょう」と話したそうだ。 しかし、実際には予想以上にガンは進行しており、胃の5分の3を切除し、既に肝臓にも転移をしていたのだ。 心配性の妻に話すには重すぎる現実である。Hさんは主治医に転移のことは内緒にしてほしいと頼んだ。それと知らず、突然の告知に戸惑いながらも、手術を終えた妻は、順調に回復するものと信じ明るさを取り戻していた。 2ヵ月後、その笑顔が消えるできごとが起きた。

夫婦二人三脚の闘病生活

ある日、気がつくとヘソのあたりが黒ずんでいる。その病状について医師から説明を受けていたときのことだ。Hさんから口止めされているのを知らされていなかったのか、ひとりの医師が、うかつにも一度目の手術で肝臓にも転移をしていたことを話してしまった。妻の顔から血の気がひいた。 「転移してたんだ・・」 もしやという思いを何度も打ち消し、希望をもち生きようとしていたKさんは、絶望のどん底に突き落とされた気がしたことだろう。  以後の2年間は、骨盤、肺、卵巣と次々に転移をし、抗がん剤、放射線治療とKさんは気の休まる間もなくガンと闘い続けたことになる。副作用の嘔吐で苦しみ続けたときには、もうだめかと思ったとHさんは振り返る。それでも治療があるうちは頑張りたいと妻が意欲を失わずにいたのは、夫Hさんがそばにいてくれたからだろう。二度目の手術のあと、妻はひどく落ち込み、会社に出かけようとするHさんの腕をつかみ、離さなかったという。そんな妻を見かねて、Hさんは介護休暇をとった。近くに娘夫婦はいるが、幼子を抱えていたし、妻は頼みごとをすることを嫌がった。その時、Hさんは定年まで、あと2年を残していた。いったんは会社に復帰するが、妻の病状悪化にともない、再び休暇をとり、結局、そのまま定年を迎えることになる。そして、最期まで妻を支え、二人三脚での闘病生活を送った。

在宅への抵抗

「最初はね。抵抗があったんですよ在宅ってことにね。妻にしたら、ただもう死ぬのを待つだけって感じ・・」 これまでの治療は苦しいがそれなりに、ある程度の効果があり、Kさんには「在宅ホスピス」は、医療から切り捨てられた人がたどり着く場所としか思えなかったのだ。 平成19年秋、卵巣転移のため腹がだんだんとはれ、体もむくみ、呼吸もつらい状態へと追い込まれていった。いったいこのままどうなるのだろう?Kさんはいいようもない不安にかられるようになった。そして、ついに病院で受付まで歩くことさえできなくなってしまった。医師に在宅治療を紹介されたとき、通院の負担を考えれば、その方がいいのではと思ったHさんとは違い、妻はやむを得ずという気持ちであったという。

「あきらめ」ではなかった在宅治療

在宅をはじめた当初は「よくこの状態で・・」と杉山先生が目を見張るほどに体は衰弱し、瀕死の状態だったという。先生はすぐに、むくみをとり、脈を下げるように薬を調整した。すると、ほんの数日の間にむくみがおさまり、息苦しさがとれ、驚くほど楽になったのだ。「妻は喜んでね。こんなに楽にしてもらえるなら、もっと早くから先生に診てもらいたかったって、何度も言っていました」崖っぷちを歩いている状況には変わりはなくとも、それを横でしっかりと支えてくれる医療があることは、どれほど心強かったことだろう。 病院が「ガン」という病気を治療する場であれば、在宅は「患者」を診て、病気ではあっても、その人がいかに快適に充実して生きるかという点に着目する医療といえる。 「体が少し楽になってからは、(私たちが望めば)体調をみながら内服薬の抗がん剤も処方してくださって、まさに“治療”もすることができました」 こうしてHさん夫妻の在宅治療に対する認識は大きく変わった。 ただ、「絶対に病院には入れないで」という妻の言葉にHさんは戸惑っていた。 「最後まで苦しまないように、私がちゃんとみてあげるから大丈夫ですよ」と言う先生の言葉に妻は安心しているようだ。しかし、最後はいったい妻はどうなってしまうのだろう。その時には、もがき苦しむかもしれない。どうしても自分の手に負えなくなれば、やはり最後は病院でということになるのかもしれないと、Hさんは思っていた

残される悲しみ

通院の煩わしさから解放された在宅での日々は穏やかに過ぎていった。妻は寝たきりというわけでもなく、トイレも自分で行くことができたので、数時間であれば外出することもできたし、もともと料理好きのHさんは家事で苦労することもなく、とくに介護のために束縛されているという気はしなかったそうだ。夕方、散歩がてらに買い物に行けばそれで十分な気晴らしになったという。妻の希望で、ヘルパーを頼むこともなかったそうだ。  自宅であれば、娘も気兼ねなく孫を連れてくることができ、Kさんもそれを心待ちにしていた。 しかし秋風が吹く頃になると、しだいに妻は体のだるさをうったえるようになっていた。体力も落ちて十分に相手になってやれない自分に不甲斐なさを感じるのか、あれほど楽しみにしていた孫や娘の来訪さえもためらうようになったという。 ある日、後ろから抱きかかえるようにして背中をさすっていたHさんに、妻はぽつんと言ったそうだ。 「このまま死ねたらいいなあ」 「うん。そうだといいけどな。死ぬってむずかしいね」 病気をもつ本人も辛いが、大切な人の死が少しずつ近づいてゆくのを受けとめる家族も辛い。妻が死の恐怖を話せば、Hさんもひとり残される悲しみと孤独を話した。

逝くときは本人が選ぶのか?

在宅をはじめて半年が過ぎた12月初めのこと。昼間は元気だった妻は、夜中に1時間おきに目を覚ました。往診に来た先生に相談すると「眠れないと本人もしんどいので、遠慮なく夜中でもいいから私を呼んでください。この状態だと2、3日うちに、ということもあるかもしれません・・」 あと2、3日?つい先日、おせち料理の話をしたばかりじゃないか。親戚にも連絡をしなくてはいけないと、頭ではわかっているが、突如迫ってきた悲しみで胸がいっぱいになり、言葉にならなかった。  妻はちぐはぐな会話をするようになり、夜中に夫が眠るリビングのフスマを開け閉めするなど、いつもと様子が違っていた。 その日は、心配した娘が予定より早く来ていた。妻は目の焦点が定まらないのかぼんやりした感じがする。昼食ももどしてしまい、呼吸も辛そうだ。すぐに先生に連絡をとる。先生は処置を済ませると、また夜に様子を見に来ますという。妻はリビングにあるコタツで眠っていた。それから3時間ほど経っただろうか、Hさんはいつものように台所で洗い物をしていた。洗濯物を片付けて、部屋にもどった娘が言った。 「あっ・・おかあさん、なんかおかしい」 ふたりが顔をのぞくと「はぁー」と息を吐いたような気がした。それが今生の別れだった。

ただひとつの心のこり

「本人は満足してると思うんです。だけど、僕はものたりないなあ。自然にっていうか。あれ?いつの間にって感じですよ」 パソコンの画面を見ながらHさんは呟く。そこには孫を抱いた妻が笑っている。結婚して35年間、いつもふたりで歩いてきた。ガンと闘った3年9ヶ月も一緒だった。家にいたいという妻の最後の願いは叶えてやれたけれど、あまりにもあっけなく逝ってしまい、別れの言葉を交わせなかったことが心残りだという。  Hさんは、花が大好きだった妻のために部屋のあちこちに花を飾っている。遺影の前に飾られているのはデンファレ。確か、花言葉は、似合いのふたりだったなとふと思った。