あっぱれ人生。みごとに散りゆく最期

あっぱれ人生。みごとに散りゆく最期

「世話になった」
そういい残し、夫は去った。幸せな人生だと妻は思った。枕元で娘や孫たちは、目をはらしていた。
「お葬式のときはね(泣かないようにわざと)喧嘩した時のことを思い出していたんです」
それは、Yさんの恩師の教えでもある。
‐どんな辛い時があっても笑っていなさい。家庭ではあなたが太陽なんだから-
 人の幸、不幸は、外からはわからない。17年にわたり、夫婦はガンと共に生きてきた。そしていま、Yさんは迷いなく言う。夫は最高の人生をおくった、と。

企業戦士がガンになったとき

モーレツ社員。そんな言葉が流行った時代を夫は生き抜いてきた人である。東京転勤になって5年あまりが過ぎた平成3年の秋のこと。夫Kさんは55歳、会社の要として活躍する熟成のときに、兆候は現れた。五十肩と思われる痛みが右肩に起こり、それは上着に袖をとおすだけで唸ってしまうほどの激痛であった。鍼やマッサージを受けるが、快方に向かうことはなかった。
翌年、正月に風邪をひき、夫はひどく咳き込んだ。2月に受けた健康診断で右肺に影があると言われたときにも、その時の影響か、と軽い気持ちでいた。その後、会社近くにある国立ガンセンターで、一ヶ月におよぶ再検査を受けることになる。Yさんも夫のスーツやカバンを持って同行した。朝一番で検査を受けると、夫はその足で会社へと直行し、大阪への日帰り出張へも出かけていった。
ようやくでた検査結果は、肺・腺ガン、既に中期であった。この期に及んでも「そうですか。先生これから大阪へ出張なんですけど、よろしいやろうか」と、平然とし尋ねる夫を医師は不思議そうにじっと見つめていたという。しかし、帰り道にみせた夫の表情は、これまでにない厳しいものであった。
 入院までの数日間もKさんは変わることなく職務に励んだ。明日は入院という、知らせを受けた日も出張先に電話をし、必ず今夜、帰宅するようにYさんは念をおさなければならなかった。

ピースサイン

相性の良い医師との出会いほど、患者を安心させるものはない。沖縄出身という大柄な担当医と夫は、とても気が合い、
「こんなところでじっとしている暇はないから、悪いとこは、さっさと切ってください」と、その身を託した。
数日後、右肺の半分を切除する手術の成功を、医師は満面の笑みを浮かべ家族に知らせた。幸い他への転移もなかった。間もなく姿を見せた夫は、ベッドに駆け寄ってくる家族にピースサインを送った。
 予後は順調で、10キロ減った体重も少しずつ回復していった。同時に、肩の痛みも消えたことを思えば、やはりそれはガンの前兆であったのであろう。4ヵ月後の8月に夫は職場復帰を果たすと、引き続きガンセンターで定期検診を受けながらも精力的に仕事をこなしていった。

マリア様に願いを

年が明ければ術後5年となる平成8年の12月。Kさんは完全復帰(完治)を信じていた。その朝も「マリア様が笑ってくれると思う」と笑顔で出かけたのだが・・・。
左肺への転移が発覚した。その落胆ぶりは初回を越えるものであった。夫はもう60に手が届く年齢である。気力で乗り越えることのできない壁が迫っていた。仕事への思いは断ちがたいが、引き際が肝心である。その年の暮れ、夫は企業戦士の鎧を脱ぎ、退職願を提出した。国内外の戦友から、志半ばで職を辞さなければならぬ無念さを惜しむ電報が、何通もKさんのもとに届けられた。
 3月に二度目の手術、左肺3分の1切除を無事に済ませ、桜の頃には、古巣である奈良に戻った。

趣味と夫婦ふたり旅を楽しむ10年

奈良に戻ったKさんは、リハビリに励み、
第二の人生を歩き始めた。以前からの趣味、落語や歌舞伎の鑑賞、アマチュア無線に加えて、近所で英会話や油絵も習い始め、年に数回は夫婦で海外旅行へも出かけた。「行動予定表」には、亡くなるひと月先の予定までが、Kさんの字で律儀に書き込まれている。
「娘二人が嫁いで、頼れるのは私だけと思ったんでしょうね。どこへ行くのも一緒で。そのくせ頑固で、ひとの言うことなんかちっともきかないし・・」と笑うYさんはどこか楽しそうだ。長年連れ添った夫婦が、阿吽の呼吸で過ごした10年間はかけがえのない時間だった。笑いや感動によってガンは影を潜めているかに思えた。

ホスピス病棟は似合わない

しかし、5年ごとにガンは暴れだす。平穏に見えた10年間にも一度(平成15年)、再発があり、放射線治療で凌いだ。その時、Kさんは宣言したそうだ。今後、再発があってもこれ以上の治療は受けない。「治療をしない」ことも自分の選択肢である、と。悲しみをこらえ、Yさんは夫の言葉に頷いた。
それから5年が過ぎた平成19年暮れ頃から、Kさんは週に数回、激しい頭痛と胸の鈍痛に襲われるようになった。在宅で診てくれる医師はいない。やむなく大阪にあるホスピス病棟に体験入院を決めた。しかし、そこはKさんの居場所ではなかった。穏やかだが、“病室”では絵を描くことも、皆と楽しく話しをすることもできない。普段着でベッドに座っていると看護師が来て、寝巻きに着替え横になるようにすすめた。これではいかにも“病人”であり、社会から隔絶された感じがした。ふつうの生活を求め、忘年会の誘いがあるなど口実を作ってはそこから抜け出した。

もっと早く在宅ホスピスを知っていれば

「ホスピス病棟を退院するとき、もっと詳しく調べれば良かった。その時点で、在宅ホスピス、杉山先生のことを知っていたら、あんなに夫は苦しまなくてすんだのに・・・」
何度、そう呟いたことだろう。過ぎてしまったことは言うな、と夫に叱られながらも、繰り返さずにはいられない。後悔の波が幾度となく押し寄せてくるのだ。
 自宅に帰ったKさんは、3ヶ月間であばら骨が浮き出るほど痩せ衰えてしまった。頭にキリでもみ込むような激痛があり、ベッドで温まると激しい咳に苦しめられ、食事もできない状態が続いたのだ。糖尿病で通院していた近所の開業医に事情を話し、痛み止めを処方してもらった。しかし、山ほど処方された薬を飲んでも何の効果も得られなかった。崖っぷちに立たされたKさんは、他にすべも無く、再びホスピス病棟を訪ねた。医師はKさんがそこに合わないことを知っており、調べてくれたのが、ひばりメディカルクリニックであった。灯台下暗し。自宅の目と鼻の先にそれはあったのだ。

不安と痛みからの解放

平成20年4月。ふたりで面談を済ませると、その日のうちに杉山先生は往診に来てくれた。先生は診察を終えると薬の処方、点滴、酸素吸入の手配などを迅速に進めた。すると、驚いたことに、翌日には痛みが柔らぎ、咳や痰も徐々になくなっていった。緩和ケアのスペシャリストがいることをKさんは実感した。苦しみから解放されると、食べる気力もでて、少しずつ体重も増え、げっそりとしていた顔はふっくらとするまでになった。あの3ヶ月間の苦境から、奇跡が起きた、Yさんはそう錯覚した。
「先生、主人はだんだん良くなっているんじゃないですか」
ある時、尋ねると、先生は「残念だけど、とりあえず治まっているだけです」と首をふった。初めてガンが発覚して以来、いつかは、と腹をくくったYさんだが、夫に起こる、厳しい現実を再認し、眠れぬ夜を過ごした。

介護者のストレスをとる

夫は先生の往診を心待ちにするようになり、安定した状態が続いた。待っていたのはYさんも同じだ。もともと頑固な夫は、病人独特の不安からか気ままを言い、手こずってしまうこともあった。そんな愚痴を先生に聞いてもらうと、気持ちがすっきりとして、また頑張ろうという気になった。しかし、在宅の不安はあった。夜中に頭を抱え込むほどの痛みにもがき苦しむようなことがあれば・・どうしたらいいのだろう。24時間態勢と、聞くが、ほんとうに連絡がとれるのか。
ある日、Yさんは先生に恐る恐る尋ねた。
「ほんとに朝の5時とかに、電話してもよろしいんでしょうか」
先生は「5時でも、夜中の3時でもいいですよ。困ったら連絡してください」と即答。その言葉を聞いて、ふたりが抱えていたもやもやとしていた不安は消えていった。

「15分で行きます」夫婦で涙した朝

自宅で杉山先生、看護師のサポートを受けながら、Kさんは気が向けば絵を描き、酸素吸入を携えて、お伊勢参りをし、映画も数知れず見に行った。なんと亡くなる1週間前まで、英会話教室に参加をしていたという。痛みが和らぎ、家族と普通に暮らしをすることで、気持ちが安定し、最後まで生きる気力を失わずにいれたのだろう。

6月末、在宅をはじめ三ヶ月経った未明に不調が起きた。夫は娘達に連絡をとるように言い、一刻も早く先生を呼んでほしいと懇願した。時計に目をやれば4時半である。どうしても気がひけた。あと30分待ってからにしよう。長針が5時を指すとYさんは、意を決して受話器をとった。すると電話口の向こうから「だいじょうぶ。15分後に行きます」と先生の声がする。絶望と不安の中にいたふたりは、いいようのない安堵感に包まれ泣いた。Yさんは夫の背をさすり「できるだけ、笑っていようね」と微笑んだ。

ふたりで成し遂げた大仕事

バタン。聞きなれた車のドアを閉める音がした。まさか、と思って玄関に飛び出すとそこに先生が立っていた。
7月2日未明、いつもと違う夫の様子に迷わず、先生に電話をすると、あいにくその日は講演会の予定があり、すぐに出向くことができないので、ナースを向かわせるという。「先生、来てくれへん・・」夫はひどく落胆した。しかし、Kさんの様子が気になった先生が予定をずらして駆けつけてくれたのだ。椅子に座り、ひん死の状態にあった夫は喜び、こんな力が残っていたのかと思う勢いで、ベッドに戻り、いつものように(点滴のために)腕を差し出していた。
先生の顔見て安心したKさんは、家族に礼を言うと、静かに目をとじ、午後4時20分、72年の生涯を終えた。

「家で看てたいへんだったでしょうと、皆さん言ってくださるんです。だけどね、ちっとも大変じゃなかった。先生に出会え主人はほんとに幸運でした。至れり尽くせりしてくださり、苦しむこともなく、したいことは全部して、言い残したこともなかった。あっぱれな死に方。私はひとりぼっちになってしまい淋しい。だけど、孤独じゃないのよ」
そう言ってYさんは笑った。 笑顔を忘れない人である。