笑顔で生き抜いた母

笑顔で生き抜いた母

2004年、10年間の海外勤務を終えてKさん夫婦は帰国した。それを待っていたかのように、母Sさん(当時79歳)は病に倒れた。もともと病弱な母だが、これまでも大病を乗り越えてきた人である。きっと、まだ生きてくれるはず、その一心で、帰国後の整理も家族に任せて、自宅から2時間ちかくかかる病院へ、毎日母に付き添った。
Sさんの口の中にできたおできの正体は上顎ガンだった。その切除手術は成功する。しかしその後、嚥下のトレーニングをするがうまくいかない。異物が誤って気管から肺に入る、誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)を起こし、危篤状態に陥ってしまった。何とか回復するが、容態は一進一退を繰り返し、持ち直したかと思うころに、また肺炎を繰り返した。それでも、Sさんは落ち込んだ様子をみせず、自分でできることは何でもやろうと努力した。自力でトイレへ向かい、嚥下トレーニングや口の掃除も一生懸命にやった。辛いなかでも、医師や看護師、家族に、いつも感謝とねぎらいの言葉をかけるSさんは、病院の誰からも愛された。

母の命を預かって

何度目かの再入院が決まったとき、Sさんは思うところがあったのか「延命治療は必要ありません」と意志をしたためた手紙を持参していたそうだ。それを知ったKさんは戸惑ってしまう。懸命に治療に手をつくしてくれている医師に、いまそれを伝える時ではない気がした。何より母に生きてほしい、という思いがある。
「お母さんの気持ちはわかったよ。私に命をあずけたと思って安心して大丈夫だからね」
―病気への不安。もう自分で心配しなくていい。娘に任せよう―Sさんは何ともいえない安堵の表情を浮かべ「あなたのいいようにしてね」と表情が緩んだという。
結局、Sさんは気管を切開し、何とか一命をとりとめた。しかし、食べ物を飲み込むことができず、鼻から栄養チューブを入れ流動食をとるように処置を済ませた。入院から1年あまりが過ぎていた。
医師は、Sさんらしい暮らしができるように、なんとか自宅に帰してあげたいと、ひばりメディカルクリニックを紹介した。娘の負担を考えてか、Sさんは家に帰りたいと口にすることはなかったが、やはり住み慣れた我が家に帰ることはどんなに嬉しかったことだろう。父はもちろん、夫Hさんも義母の退院を心から喜んでくれた。家族の気持ちもひとつになりKさんは専門の先生が自宅に往診に来てくださるなら安心と、在宅ケアをはじめることに、なんの不安もなかったという。

先生はまだかしら

2005年5月、Sさんは鼻のチューブの入れ替えをするために2週間に一度、病院に通いながら、ひばりメディカルクリニックのサポートを受けることになった。担当医の吉川先生は、毎日、往診にきてくれた。先生は気管切開部と気管内チューブを消毒し、看護師とも連携して、Sさんのちょっとした体調の変化も見逃さないように細心の注意をはらった。
女性同士ということもあり、Kさん達ともすぐに打ち解けた。長身ですらりとした吉川先生は、流行の服をセンスよく着こなし、先生がいるだけでその場が華やいだ。オシャレ好きなSさんは、先生のファッションを見るのをとても楽しみにしていたそうだ。三人がリビングで和やかに話す様子からは、医療現場という深刻さは感じられない。患者さんの気持ちを少しでも明るくしたい、先生が着衣に気をつかうのは、そんなポリシーからだった。
「母は先生が大好きで、来られるのを楽しみにしていました。私は母の病気のことだけでなく、いろいろなことを先生とお話しでき、ストレスを溜めずにいれたし。そのおかげで、最後まで母を家で看ることができたと思います」とKさん。家族は先生に全幅の信頼を置くようになった。

ハンカチもった?

Kさんの言葉を借りると、母Sさんは手のかからない病人だった。いつも前向きで、愚痴ひとつこぼすこともない。口癖は「だいじょうぶ」。病気になったことは辛いが、それも宿命と受容し、皆にこうして支えてもらえることをありがたい、といつも感謝の気持ちを忘れない人である。スムーズにしゃべることはできないが、Kさんには母の意思を100%理解することができたという。父Mさんは耳が遠く妻の言葉をうまく聞き取れないこともあり、筆談を交えて話しをしていたそうだ。繊細でしっかり者のSさんとのんびりとおおらかな性格のMさん。この年代の夫婦の多くがそうであるようにMさんは、身の回りの世話は妻に任せきり。Sさんは、病身でありながらも何かと夫のことを気にかけ、「ハンカチもった?」出かける時にそう書かれたメモを渡す場面もあったそうだ。
夫も仕事から戻ると、いつも義母に声をかけて励ましていた。Sさんは、こうして家でいられるのもHさんのおかげと常々話し、喜んでいたそうだ。
ふだんのSさんは、Kさんが庭に植えてくれた花を愛で、音楽を聴き、栄養チューブから栄養剤を注入しないほんの数時間には、散歩に出かけることもできた。
数ヵ月後、これまで鼻から摂っていた栄養を食道に直接送る手術を受けると、定期的な病院通いも必要なくなった。時間的な余裕もでき、家族は平穏な毎日を過ごした。

ふた月の入院後も歩けるように

変化がおとずれたのは、その年の12月。Sさんは風邪をこじらせ、嘔吐をしたものが逆流して肺に入り苦しんだ。折り悪くKさんは不在だった。Sさんは、そんな時も気丈に「だいじょうぶ・・」と言っていたそうだ。「おばあちゃんのだいじょぶは、当てにならないからなぁ」家族から連絡を受け、すぐに駆けつけた吉川先生は困ったように言い、事態の深刻さから、連携する病院にSさんを緊急入院させる手配をすすめた。Sさんは、その後、2ヶ月間、重症患者として病院のベッドで寝たきりで過ごすことになる。
そこで驚くのは、2ヶ月の寝たきり状態にあったSさん、80歳を過ぎ、しかも呼吸も楽にできないひとが、そこでも絶望することなく、リハビリに励み続け、やがて病気の回復とともに自力で歩けるようになったことである。Sさんの決してあきらめない姿に誰もが脱帽した。

生きてそばにいてくれるだけでいい

翌年の春、再び歩けるようになって家に戻ったSさんは、以前のように散歩を楽しむまでになった。まだまだいけるな、と家族は喜んだ。幾多の困難があろうとも、精一杯に生きようとするSさんは、家族の生き方にも影響をあたえたようだ。気がつけば、これまで以上に互いに相手を思いやり、助け合うようになっていた。とりわけ、Sさんを頼りにしていた父Mさんは、次第に多くを望まず、Sさんがただ、生きてそばにいてくれることだけで、幸せだと思えるようになっていったそうだ。
秋の訪れとともに、Sさんの人生も終焉に向かっていった。血液検査の数値が思わしくない。吉川先生は顔を曇らせた。ガンが再発しているかもしれない・・。確定するには入院が必要になる。しかし、たとえ再発が確認できたとしても、その後の治療のあてはない。
Kさんは感じていた。―もし入院をしたら、母はもう家に戻れないのではないか。なんとしても最後まで母を家で看てあげたい―
家族が選んだのは、大切な時間を共に暮らすことだった。

亡くなるときはおばあちゃんが決める

Sさんは体力が落ち、しだいに寝ている時間が長くなっていった。Kさんは、いつ別れの時がくるのかと思うと気が抜けず、24時間ひと時も母から目を離すことができないと、自分を追い込んでいった。疲れがKさんの表情ににじんでいる。そんなKさんの緊迫した様子に気づいた先生はこういったそうだ。
「亡くなるときは、おばあちゃんが、この人がいる時にしようと、選ぶの。だから、Kさんは、普通に生活していたらいいよ。おばあちゃんはわかってはるから」
フツウの生活をしていたらいい。先生の言ったその一言で、Kさんは肩の力がぬけ、気持ちはずいぶん楽になった。

奇跡の3日間

「お母さん、Cちゃんが帰ってきたよ」
そう呼びかけると、Sさんはうっすらと目を開けた。数日前からSさんは昏睡状態にはいっていたのだ。それが、今は意識をはっきりと取り戻し、孫娘Cさんを見て微笑んでいた。Cさんはどうしても会っておきたい大切な人だった。幸いその日は、夫も海外出張から戻ってくる日でもあり、二重の喜びとなった。それから3日間、Sさんは気をしっかりと持ち直し、遠方から見舞いに来た息子夫婦、孫たちとも会うことができた。「よく来てくれたわね。悪いわね」と、いつものニコニコ顔で礼を言っていたそうだ。吉川先生も、おばあちゃんが皆に挨拶ができたあの3日間は奇跡、と驚くほどのことだった。
最期の日。「先生はいらっしゃるかしらね」
Sさんはうとうとしながらも、吉川先生を待っていた。「先生が来てくださったわよ」そう声をかけると嬉しそうに微笑んだ。言葉にはならなかったが、それは感謝の笑顔だったかもしれない。先生が去った30分後にSさんは思い残すことなく昇天した。そこにいたのは、娘のKさん。父Mさんはちょっと郵便局へ、と出かけていたそうだ。それがSさんの選んだときだった。
「父はほんと、のん気な人だから、間に合わなくて・・ふふ。長い間(海外赴任で)あけていた分、この3年半はみっちりと一緒に過ごせてよかった。母はしんどいのに、私のために生きてくれました。ほんとに人生を“生き抜いた”人です。生き方の勉強させてもらいました」
ある日のこと。手帳を手にして思いにふける父Mさんの姿があった。「ハンカチは持った?」妻の文字が書かれたメモがそこにはさまれていた。「だいじょうぶ。ずっとあなたのそばにいますよ」そう、ほほえみながら夫につきそうSさんの姿が見えたような気がした。