大事な宝物をよろしくね

大事な宝物をよろしくね

からりと明るい人、それが M さんの第一印象だ。そしてよく笑う。 M さんには小学生の子どもが二人いる。兄が5年生、弟が3年生。元気に学校に通っている。平成 19 年 12 月に夫 E さんを胃がんでなくした。

「私、もっとしょげとかなアカンのでしょうけど。泣いてても、泣かなくても時間は経っていく。ベストな状態で学校に行ってもらわなアカンし、子どもたちの前では泣いたことないですね。だから、こらーって雷も落とす、いつものおかあさん。パパごめんねって、そう言いもって暮らしてるんです」

夫 E さんはこの家族の明るさが好きだった。子ども達は寝る前に、お父さんに挨拶をする。天からを見て安心しているのか M さんの夢には現れない。

長引く胃の痛み

こじんまりとしたマンションの一室で私は M さんと向き合って話しをしている。四畳半ぐらいの広さだろうか。間にテーブルはない。数ヶ月前まではベッドがおかれていた。話しをするふたりを見るように働き盛りの男性の遺影が飾られている。 M さんの夫 E さん享年 52 。長引く胃の痛みを感じたのは2年前のことだった。

「がんって言われた」

「またあ、そんなウソゆうたらアカンよ」

平成 18 年3月それがはじまりだった。

E さんはまじめで凝り性、仕事も人任せにできない、私と正反対の性格と M さんは言う。睡眠時間は4時間をきることも多く、たばこは日に4箱のヘビースモーカーだった。転勤や転属がある度に胃が痛んだ。慢性のストレス性胃潰瘍となり薬を内服していた。それで胃のあたりに痛みを感じても「またか」、と夫婦ともに思っていた。しかし、今回の痛みはいつになく治まらない。近くの診療所で検査を受けると、若い医師はそれが進行性ガンであることを淡々と告げたという。 E さんは思いがけない事態をすぐには受け入れられずにいた。

子ども達を不安にさせない

大阪の病院に検査入院をする半月程前のこと。 M さんが友人宅へ出かけて戻ると夫の機嫌が悪い。

「人が真剣に話そうと思っているのにお前はいなかった」

となじられた。どんなこともふたりでよく話しをする夫婦だっただけに、 E さんはいろいろと妻に聞いてほしい思いがあったのだろう。むろん夫の身体は心配だ。しかし、 M さんには闘病に備えて、どうしてもしておかなければならないことがあった。それは子ども達が不安にならないようにすること。夫の付き添いで病院に行けば家も留守がちになるだろう。新1年生になったばかりの息子の帰宅は早い。鍵をもたせるのは忍びなかった。幸い友人の何人かが子どものめんどうをみてくれることを快く引き受けてくれての帰りだったのだ。 M さんは夫の不安な気持ちを察して不在を詫びた。そして、 E さんも妻の考えに納得し、その後、決して病気の不安を家族にぶつけることはなかった。

私たちはなんとかなる。治療法はパパが決めて

胃がんが確定し、手術の日程が決まった。 M さんは手術の数日前にひとりで診察室に呼ばれた。

転移が進んでいれば、胃の摘出をせずにそのまま閉じることになる。その後は化学治療へと移行する、と医師は説明した。はたしてその危惧は現実のものとなった。だが E さんにはその事実は知らせないことにした。

手術後、 M さん夫婦は大きな岐路に立った。このまま抗がん剤治療をしなければおそらく9ヶ月。治療をしても2年という命。うまくいけば、2年は5年になるかもしれない。しかし、治療にはつらい副作用もあるだろう。

「そのとき、主人にふたつにひとつの選択をさせました。治療をしたくないなら9ヶ月を楽しく暮らせばいい。抗がん剤治療をするなら一緒に頑張ろう。でも途中でやめたくなったらやめてもらっても結構。パパの自由にしてもらっていいですよって」

しかし、まだ小学生の子どもを残して大黒柱がいなくなる悲しみや不安はいかばかりだったのだろう。

「自分がオドオドしたら、皆が不安になる。わたしはどんぶり勘定の性格やから。(生活は)どうにかなるって思いましたね。親族もいざとなれば帰ってきたらいいと言ってくれたから。パパが病気で治療をしなければならい現実は変えられないわけだし、私たちは何としても生きていける。それぐらいの気でいないとムリなんだろうなって・・」

M さんはこの2年間、暗い思いで生活をした記憶がないという。

決意

E さんは家族を路頭に迷わせたくないとこころを決め、抗がん剤治療を続ける道を選んだ。それから半年程を自宅で療養。子煩悩な E さんは子ども達と工作やゲームに興じ、和歌山へ釣りにも度々家族で出かけた。

「おかげで私だけ、真っ黒になっちゃった」そういって M さんは涙をぬぐい笑った。手元にいくつもティッシュが転がっている。

その後、会社の寛容な受け入れもあり、抗がん剤治療を受けながら仕事に復帰。それから1年は小康状態を保つが平成 19 年 10 月に再び入院。すでに抗がん剤治療はデメリットが大きくなり思わしくない。主治医は家族の時間を大切にするためにも在宅での治療をすすめた。

それを聞いた E さんは明るく話す妻に静かに言った。

「だいじな宝もの、ふたりをよろしくね」

介護者の心身の苦労も分かち合って

‐家にパパが戻ってくる。そんなんできるんや。でも、もし病状が急変したら、近くにちゃんとまかせられる病院はあるんやろか。点滴をするときに使う、病院にあるようなあのゴロゴロも買わなくちゃ‐そうとっさに M さんは思った。ひばりメディカルクリニックが連携している病院があることを知りまず安心。面談で杉山先生や看護師に会い、「うん、この先生ならだいじょうぶや」と勘が働いたそうだ。点滴装置は先生が訪ねてきてなんなく解決された。部屋にある電灯の電球受けに点滴をひっかけて使ったそうだ。病院のゴロゴロとは違うが、充分に役目を果たすのである。

自宅に戻った E さんは頻繁に嘔吐を繰り返した。子ども達はその様子に驚きはしたが恐がることはなかった。苦しそうな父の背中をさすり、水を渡した。

予断を許さない状態は続いた。 40 代の M さんといえど、夜中も2時間おきの看病が続くとさすがにこたえる。手伝いに来てくれた実家の母にも夜は任せられない。これでは昼間、いらいらしてその矛先を子ども達に向けてしまうかもしれない。看護師に相談すると介護保険を使ってヘルパーをいれることができるらしい。‐他人に手伝ってもらうことを何も恥じることはない。利用できるものは利用させてもらおう‐そう M さんはわりきった。ケアマネージャーが来て、ベッドの方が楽でしょう、とすぐにベッドも手配してくれた。最初は週に3日、後には毎日、子ども達を学校に送り出した後にヘルパーが来てくれる。かたときも目がはなせない夫を看てくれる。その間に M さんは別の部屋でぐっすりと寝る。体力を回復して、子ども達の前ではいつものお母さんでいよう。

患者の身になり小さな気持ち良さを大切に

ある日「今日は髪を洗いましょう」とヘルパーが言う。どうするのかと思って見ていると手馴れた手つきでベッドのさくを外して、髪を洗った。へえ、と M さんは感心する。無論はじめての経験ばかりである。夫の表情がゆるむ。看護師が口の中のべたつきをとる掃除をしてくれた。そんな小さな気持ち良さが生活をするうえで大切なことなのだと思う。それぞれの立場と経験から、患者だけでなく介護をする側がやりやすいようなアドバイスを親身になってしてくれるのも M さんにはありがたかった。

E さんを度重なる激しい嘔吐と痛みが襲う。それでも何とかトイレへ立とうとする。患者にも介護者にも負担が大きすぎると先生が判断し、痛みなく楽に過ごせるように睡眠薬も点滴に加えることになった。

家族の時間

E さんはうとうとまどろむ時間が増え、薬がきれると目を覚ましうっすらと目を開けて 呟く。

「子ども達は?」

「向こうでおばあちゃんとごはん食べてる」

「うん」

「パパ、今日は○○の誕生日よ」

「おめでとう」

短い会話に家族の思いがこめられている。

母の手が離せないときにはゲームをしながらでも子ども達が父のそばにいた。

「だってお父さんに言われたもん」

Mさんが買い物にでかけ不在のおりに、父は子ども達に話していたのだ。「お父さんは調子が悪いから自分でできることは自分でするように。お母さんの言うことをよく聞いて助けてあげてほしい」ふたりは小さく頷いた。

新しい年まで数えるほどになったある日。胸がドキドキすると夫が言う。これはいつもと違うと M さんは直感した。先生が駆けつけた。点滴をする。先生は言った「あぶないかもしれない」。その晩、 M さんは子ども達に話した。

「お父さんはもう長くは生きられない。でも、だいじょうぶだからね。お父さんはいつもお母さんとあなた達のこころの中にいるから」

翌朝、 Eさんの呼吸が乱れた。枕元に家族が集まり、最期のときを見守っていた。父が懸命に生きようとし、しかし少しずつ弱っていく姿を子ども達は見てきた。そして、いままさに父の死を受け止めようとしていた。母子ともに涙があふれた。家族が見守るなか、 E さんは昇天した。

春がきた。

「パパがいたら釣りに行けるのにね」

「淡路島楽しかったね。また行きたいな。お父さんも一緒に行けたらいいのにね」

「じゃあ、写真をもって行こうか」

「うん」

子ども達の顔が嬉しそうに笑った。

「でもね、すぐにはムリよ。ちゃんとお金もためてからね」

M さんも笑った。