お父さん、家に帰ろ

お父さん、家に帰ろ

午後8時半、夫の様子がおかしい。金魚のように口をぱくぱくさせ、息遣いも乱れている。脈はどうか。いつものように手を当ててみる。 1分間の脈拍数はよく知っていた。すぐに杉山先生に電話した。が、折り悪く神戸の学会に出てそこから戻る道中だった。 「急いでそっちに向かうから」。 先生のその言葉に安堵するも、状況に変わりのないことにすぐ思い至る。あいにく、ナースも手が離せないのか電話にでない。 15分ほどその息が続いただろうか。朽木のようにやせ細ったその手を握りながら、息をこらして夫を見つめた。

「こんなん人にゆうたら笑われるけど、ほんまにお父さんは偉い人やったなぁって。覚悟してた人やから。いろんなことあったけど、 今はそれしか思い浮かばへん」。 ふた月前まで夫であるMさんと過ごした部屋に座り、話しはじめた妻Sさんを秋の柔らかな日差しが包む。その表情はとても穏やかだ。 四十九日が過ぎた今でも、故人を偲び、訪ねる人が絶えない。来客をもてなし、忙しくすることが、少しずつ悲しみが現実のものと なり始めたSさんを癒している。 「明日はね、税務署長をしていた夫に勲章を下さるらしくて」、と嬉しそうに笑った。

      
それは、去年の六月のことだった。すずなりに実をつけた庭の梅の木を眺め、Mさんがぽつりと言った。 「あの焼酎で梅酒漬けよか」 そのひと言に、Sさんは夫の変調を確信した。ここ最近、食も細くなり痩せてきたので心配はしていたが、もとより寡黙な夫は不調を口にしない。 年のせいで食べるのを控えてるんや、と取り合わなかった。 「主人はお酒が好きで、取り寄せまでして楽しみにしていた焼酎があったんですが、その焼酎で梅酒を漬けろって言うんです」 その時には、もう酒を美味い、とは思えなくなったのだろう。これまで病気らしい病気をしたことがなかったMさんは、 大の病院嫌いでもあった。そのMさんが重い腰を上げたのは、妻が半ば脅すように言った、 「孫が嫁に行くまで生きていたくないの?」の一言だった。 

       
過去を振り返ったり未来を憂う事はなく、たとえ九十九%絶望的な材料しかなくても真っ暗闇に一筋の光を見つけ出す気力を持ち続けたい――。 「行雲流水」を人生哲学とし、癌という病に苦しみながらも最後まであきらめずに闘ったMさん(享年68)の遺した言葉である。 平成17年7月、直腸癌が見つかり手術。率先して結果説明を聞きに出かけたMさんに告げられたのは、余命一年だった。 「でも、お父さんは、泣き言は一言もいわなかった。けろっとして、堂々としてたなあ。ただ一度だけ、主人の書斎に私がふいに入った時、 主人が真っ赤な泣きはらした目をしてたことがあって・・・。私、びっくりして逃げて出てきたくらいやった」。 家族に心配をかけず一人、決別の思いをかみしめ、運命を受け入れていたのだろうか。 以後、Mさんは、抗がん剤治療を受けるため入退院を繰り返す日々が続いた。通院するときも車は使わなかった。 38キロまで体重が落ちたMさんには大仕事ではあったが、「気力が大事や」と言って自分の足で歩くことにこだわった。 一歩、一歩。

翌年5月。近くにある病院に転院してまもなくのことだった。尿が出なくなり、度重なる腹痛と嘔吐がMさんを苦しめた。 病院では鼻から管を入れて腸内のものを出す処置がなされたが、もう、水すら飲めないような状態だ。 Mさんに残された時間はあと一ヶ月。もう治療の方法はない。Sさんが杉山先生のことを知ったのもその時だった。 「在宅での最期はどうなるか、なんて先の心配より、お父さんは病院嫌いやし、家にいるのが好きな人。 治療法もないんやったら家に帰ろって思ってね。病院の人も大変になったら戻ってきたらいいよ、と言ってくれたから」。 ごく自然な流れで在宅でのケアを決めたSさんは、書斎のベッドで横になる夫に笑顔で話しかけた。 「私は、お父さんのおかげでこれまでこれたから、今から頑張るわ」。 それは、庭の梅が、再び実をつけ始める頃のことだった。

     
残された人生を予感していたのか、Mさんは病に伏せるようになるまでに自分史をまとめていた。 そこには、幼い日の思い出から仕事のことまで、その几帳面な性格そのままに、克明な筆致で綴られていた。 「小さい頃から苦労してきた人やから、長男で、弟や妹のめんどうもみて。我がままいえないのがしみ込んでたんやろなあ。 甘えることを知らなかったし、我慢強かった。終戦の年が7歳やから苦労も多かったと思います」と、Sさん。 そして、高校生になる孫に宛てられた、こんな一文もみえる。 作物は一年めにできなくても、またいつかいいものができる。しかし、嫁の不作は一生続くから気をつけるように―― 可笑しなことをさらっと真面目な顔で言ってのける、Mさんの姿がそこにはあった。巻末には、自分亡き後の妻を 案ずる言葉と、自身の死を知らせてほしい連絡先がきっちりと記されていた。 日頃から、多くを語らなかったMさんの思いがつまった一代記は、家族にとって‘宝’となった。

家で過ごすようになったある日のこと。翌日は弟たちが見舞いに来ることになっていた。 Mさんは、鼻から通したイレウス管を勝手に外してしまった。それを本人は「ポロッとぬけた」としれっとして言う。 鼻から腸まで通してある管が、である。話しをしにくいし、何より管を通した自分の姿を弟たちには見せたくなかったのかもしれない。 戸惑いながら相談したSさんに、杉山先生は、 「そうかぁ、嫌かぁ。でも、どうしても要るようになったら、つけよな」、と落ち着いた声で答えた。 建前が先行する病院ではできない話しだった。本人の意思を尊重する在宅ならではの臨機応変の対処である。 次第に会話がままならくなっても、Sさんは、ベッドのそばに座り夫の目線と同じ高さになって、普段通りに話しかけ続けた。 できることは、何でもやってみた。体を拭き、洗髪し、痰をからませれば吸引もした。 それは24時間つききりの介護となったが、Sさんは、 「全然辛くなかった。お父さんが可愛いーって気がして。子育てみたいな感じやね。夜中、お父さんの息遣いがおかしいと、 ぱっと目が覚めたし。お父さんは、いつも静かで、堂々と寝てたから、できたんやと思います」。 まとまった睡眠時間がとれず、疲れで足がもつれることもあったが、気丈なSさんは、決して夫の前では涙をみせなかった。

残暑まだ厳しい8月19日。あと2、3日と杉山先生に告げられても、Sさんにはいつまでも夫が生きている気がしてならなかった。
しかし、その夜、夫の息遣いが乱れた。そして、訪れた静寂。
「お父さん!」
胸に手をあて懸命に人工呼吸をしてみる。すると、思いが通じたのか、ふっと大きな息を吹き返した。 「やった!」、と思ったのもつかの間、妻Sさんと娘たちが見守るなかで、Mさんは、静かに息をひきとった。 ふと目にした時計の針は、8時57分を指していた。 「まさか自分で主人の最期を看取るとは思わなかった。在宅でみると決めた時に、主人が死ぬときはどんなに怖いかと思ったけど、 ちっとも怖くなかった。途中で病院に返す気にはなりませんでした。私は、まだまだやっていけたのに。どんなに悪くても、 そんなに慌てて逝かなくてもよかったのに。でもひと月と言われた命、2ヶ月と19日生きてくれてありがたかった」。 行雲流水。Mさんは、宿命に逆らうことなく、最期まで堂々と過ごし、生まれてきた時がそうであったように、 やさしい眼差しと暖かい手に触れながら、静かにその生を閉じた。