大好きな家族に囲まれての生活(須磨弘子 様より)

大好きな家族に囲まれての生活

夫が亡くなって1年が過ぎようとしています。

夫はいろんなことに興味をもった人でした。近年は陶芸(退職後をにらんで自宅に築窯)・息子夫婦と潜るダイビング・美術館の解説ボランティア・大台ケ原のボランティア。朝ごとの散歩も欠かさず毎日の生活は健康且つ充実したものでした。自分たちの死に方の意思を明確にするため「無駄な延命治療は絶対にしない」と尊厳死協会の署名もしていました。

2000年4月に入り、恒例となったGWの全員揃っての民宿一泊旅行・モンゴルへも行ってみたい・青年海外協力隊に応募してみたい、といろいろ計画を立てている最中で手帳にぎっしりと予定が書き込まれていました。ところが、定期的に受けていた病院の検査で異常に高い数値が見つかり、CTを受けて事態は一変したのでした。

肝臓に腫瘍があると分かった時は素人の私にでも大きく幾つもの白いものがあるのが見て解りました。一瞬凍りつくというか、これからの全てをみせつけられた思いでした。1961年に結核で肺切徐、それに続く輸血で急性肝炎になって1年余り休職しているということはすでに危険因子を持っていたということですが、私は肝硬変にならなければ肝臓がんにならないと単純に信じていました.。1983年に肝臓の数値が悪くなり、勧められてインタ-フェロン100本を打ちGOT・GPTともに正常値に戻り、体力的にも自信を取り戻していました。みなさんからは「退職後のほうが元気で活き活きしてますね」といわれるほどでした。

抗がん剤による治療ははじめから選択肢に入っていませんでした。肝臓に悪い影響があるためでしょうか。まず最初は近大附属病院で肝臓を兵糧攻めにする塞栓法TAE。そのころ入会した大阪肝臓友の会会報で多くの情報を得、また世話人との電話相談により次に手術を受ける病院を大阪平岡クリニックを経て日赤大阪病院へ代えることを自ら決めました。

最初の回診のときの先生の第一声が「すさまじいねぇ」でした。覚悟していたもののキツイ言葉でした。7月末に主人と私、息子と一緒に病状説明を受けました。肝臓は大きな癌になっており、肝右3区域切除と決まりました。8月11日手術、義兄とともに成功の喜びをかみ締め合いました。それから数日は付き添ったものの思いのほか早く快復し、5日目には「ひとりでレントゲンを撮りに行ったよ」と話していました。その後は毎日二人で暑い日差しを避けながら病院の回りを散歩するのが日課でした。8月末退院、一ケ月あまりの平穏な日々を送りました。

10月初めに背中の痛みがひどくなり日赤を再診。この時すでに座って待つのが辛く待合室のソファで横になって順番を待ちました。「手術の際に手を縛った為しびれが残っている」との説明で痛み止めを処方されて帰りました。(夫がソファに横になっている間に医師より再発を告げられました)それでも治まらず3日後に近くの診療所でMSコンチンの初処方してもらい、また普段の生活にもどり庭の松の手入れをしたり買い物に一緒に出かけたりしていました。ところがその日は風呂に入って休んだものの排尿困難となり夜間外来を受診。足にも力が入らなくなりました。

10月19日に再入院。第4胸椎の転移性腫瘍が脊椎を圧迫し、骨折との診断、下半身運動麻痺。排尿排便障害の身となり突然ベッド上の生活となってしまいました。入院当日担当の外科の女医さんが「帰って家で過ごしたほうがいいですよ」と親身になって言って下さったのです。 困難に直面しても懸命に受け止め、前進のみを考えている夫を家で支えることができたらと、迷うことなくすぐ家の改築を考えはじめました。便意はあったものの病院ではおむつ使用で夫には大きなストレスでした。改築案に実父から「そんなにお金をつぎ込んで」と言われ辛い思いもしましたが、退職金を老後の生活費用と主人の旅行のためにわけてありましたし、陶芸教室から頂いたお金もありました。主人の働いて貯めたお金を主人のために使うことに何のためらいもありませんでした。11月初めに早くも工事契約(300万)を結びました。退院にあわせての突貫工事です。

保護用に胸に当てるコルセットを作ってもらい早速退院後に備えてのリハビリ開始、車イスとベッドとの移乗のコツを教えていただきました。放射線治療(コバルト照射39グレイ)も限度一杯まで済み、病院でのこれ以上の治療もなかったため退院の段取りとなりました。ところが整形外科医の言葉は新しい生活に水を差すようなものでした。退院数日前に病室に来られ今後の注意など話してくれたのですが、その中で「骨が脆くなっているのでベッドの上で上半身を少し起こすくらいの生活が限度です。移動は無理です。食事も用足しもそのままでしてください」
 
すでに改築を済ませ、家での生活を思い描いていただけに先生が部屋を出られると二人して泣き伏してしまいました。こうなればたとえ骨折が考えられても、自分たちのやり方で行こうと手を握り合い涙ながらに話しました。

入院前からお世話になっていた近所の医師に往診を頼むこと、身障手帳と介護保険の申請、訪問看護を受ける業者の選定、車イスで乗れる車への買い替え(本体130万で改造後233万)在宅に必要な用具の手配など矢継ぎ早に注文買い足す毎日でした。

12月1日退院。まだ工事も続いていました。これからは何が起こるかわからないと心配でしたが、無事にその年を終えることができました。年末恒例のごまめ炒り(ベッド上で)、祝い箸の袋に皆の名前を書き入れるなど一緒に正月の準備をしました。帰って来た4つになる孫とふたりベッドの中で話し込んだり、遊ぶ子供たちの様子に見入り、家族の会話にも加わり、一緒に生活できる幸せを味わいました。翌年の夏過ぎまでは比較的ゆっくり過ごせた時期でした。 病院の往復がない分、掃除や洗濯も体カ的に助かりました。そばに居ながらいろんな事ができるのです。寝たきりになっても以前からと同様に二人で同じ部屋で寝て食事をして、 夫も自分らしさを発揮し絵を描いたり本を読んだりと気楽に療養生活を送る事ができました。食事の時間はお腹に合わせてずらすことができますし、妨げられず自由に寝ることも出来ます。やっぱり家はいいなぁです。訪問看護は週2回健康管理と入浴と排便のお手伝いにと來てもらいました。
ベッドで出来る何か楽しいこと、生きる力になるものをと心掛けましたが、
○寝て食って糞して日が暮れる
○日が暮れて今日一日の価値を問う
○今日は明日は何にすがって生きゆくか
と退院後しばらく本人は随分と生きる目標を模索していたようです。
(日々の思いを綴った歌があるのを亡くなる2ヶ月ほど前に教えてくれました。今はこれを読んでどんなことを考えて毎日をおくっていたのかが痛いほどよく分かります)

二人の心配は病気が進んで行くと痛みがひどくなるのではないか、内科外科専門の先生で痛みに対応してもらえるのだろうかということでした。往診の先生にもその旨をお伝えしておりましたし、自分たちでも電話帳でペインクリニックを扱っているところを調べたりしました。その内終末期患者に対する医療への情熱があり、緩和ケア病棟で研修中という杉山先生を紹介していただきました。先生は息子と同年代の若さでホスピス研修3ヶ月目の駆け出し(失礼)でしたが、直感的にこの人なら全部安心して任せてもよいと心の落ち着きを覚えました。杉山先生は腰を落ち着けてゆっくり時間をかけ病状や生活環境、趣味のことを聞いて下さり、またご自分のことも隠さずお話になるので、こちらも全部話すことが出来ました。病院勤務の際に一人看取られたようですが、在宅では夫が第1号患者で、麻酔科医としての勤務の合間によく覗いてくださり、主人との信頼関係を確かなものにし、それからの治療方針の受け入れが容易になりました。夫はもうひとり息子ができたような気分で相談ごと(?)にのったりしていました。まず最初に全体像を知るためにと自宅から病院へCT検査にでかけましたが、大きな検査はこの時だけであとは最小限度の血液検査だけで、本人の負担が少なく助かりました。それと点滴や注射が上手なことはいうまでもなく、針の入り難い身体であっても失敗なさらないのです。

一ケ月程して先生の研修先である.神戸の六甲病院に診療予約を兼ねて見学に行き、実際にホスピスとはどんな所かをこの目で確かめる機会をつくって戴きました。これでどのような事態が起こっても受け入れ体制がととのったことになり、安心感が広がりました。

薬(MSコンチンなどによる疼痛緩和)の調節に細かな神経を配ってくださったので痛みは最後までほとんどありませんでした。
病状が安定している時に杉山先生を交えて最期の時をどのように迎えるかを穏やかに語り合いました。いわゆるセディションです。

2001年、なんとか元気に迎えた正月に長男の嫁の妊娠を知らされました。その嫁が、生まれてくる子のために絵本を書いて欲しいと夫に頼んだのです。主人がインタ-ネットで情報を集め、一生懸命に取り組む様子が朝日新聞ひとときに載ったこと、折角だから印刷して出版しようという話、絵本におはなしをつけよう、絵本が出来上がって、贈る方にそれぞれ謹呈の言葉を書き込んだり・・・で半年はあっという間に過ぎてしまいました。

○家族寄り絵本づくりを楽しむか
○絵本をば肴に語る夏の宵 
○約束の絵本仕上がりひと眠り(それまで命が持つかと危惧していました)

入浴後はバリアフリ-にした庭に出て草花に安らぎを感じ、新鮮な空気の中でしばらく過ごすこともありました。体調のいい日を選び町並を見ながら公園まで短いドライブも楽しみました。傍目からは大変な状況にあったにもかかわらず、私達は精神的に守られて日々を重ねました。お月様を手鏡に写してお月見もしました。あの時は本当に美しいお月様でした。お互いもう次はないと思いつつ言葉には出来ませんでした。

杉山先生の記事が週間朝日に載りました。入院患者さんに「日記をホームページにしたらどうやろか」と提案なさったとのこと、これにヒントを得て我が家でも夫の小品をホームページにのせて学校時代の友人に見てもらうことを計画しました。

早速知り合いの写真家にお願いし、陶芸作品やベッドで書き溜めた小さな水彩画を撮影してもらいました。早く出来あがって欲しいという思いと、仕上げを急がないでという複雑な思いが交錯していました。

ホームページの立ち上げは思い通りには行かず、途中でウイルスにやられたりしましたがやっと年末になり、皆さんにアドレスを送ることが出来、夫もベッドの横に置いたモバイルパソコンで出来あがりを見ることができました。学生時代の友人から励ましのメールが沢山入りうれしい悲鳴をあげていました。
自宅療養も1年近くの11月中旬末梢神経が圧迫されたためか、手にしびれが来ました。絵筆が持てない、新聞がめくれない、茶碗がもてない、テレビが唯一の時間つぶしとなりました。
長男の出張先からメ-ルが届くと片手で文字を打っていましたが、最後は私に口述で入力を頼むようになりました。

カレンダ-を見ては指を折り、後何日で帰ってくるかを数えては折り、私は見て見ぬふりの毎日です。亡くなる前日は身の置き所のないだるさを味わったようで電話で先生に訴え睡眠薬を飲むように指示されました。

1月25日の朝 看護師さんが来られたときは薬の影響かうつらうつらとした感じであったのが、身体を拭いてもらい、おしゃべりしている内に元気がでてきて普段のとおり、看護師さんと三人で冗談を言い合っていました。 「私の心配しすぎかな」と言いつつも「お腹が張っているので先生に連絡を入れておきます」と帰られました。

昼食も終わり薬もキチンと飲み「先生、間に合うかなぁ」と話しておりました。目の周りが傍目にも色が変ってきているようで私も不安になりました。ベッドのそばにイスを寄せ、これからずっと側にいるほうがいいと感じました。一瞬のうちに手を持ち上げました。どうなったのか覚えていません。

「お父さんどうしたの」と呼びかけても、言葉はなかったけれど水のみを当てると唇を少し動かしました。そしてすぐ硬直がはじまりました。静寂の中でしばらく二人の最期の時間を過ごしました。夫を撫でながら「ありがとう」の言葉を繰り返しました。想いは届いたのでしょうか。

ちょうどその頃、長男は飛行機の中で「もうすぐ羽田到着だなー」と思っていたそうです。子供が帰ってくるのに合わせたかのようでした。出来過ぎでした。 主治医の杉山先生が来られ、昼3時、死亡が確認されました夫は最期の数分前までお喋りし、穏やかな表情を見せていました。

本当に辛い日々であったろうに苦しむことなく、一番嫌な不様な姿をさらすことなく永遠の眠りについたお父さん「最後までカッコイイナ」

願っていた『ねがわくは花の下にて春死なんこのきさらぎの望月のころ』(西行法師)のように春が待てず、寒い時になりました。でも住み慣れた我が家で大好きな家族に囲まれて過ごした日々。よかったね…お父さん。

結婚しいろいろ教えられ、主人を介して、いろんな人との出会いがありました。また看病も出来ました。私も少しだけ成長できた日々でした。
色々な条件が揃ったお陰で、在宅介護を終えることが出来たのです。
 
幸運だったのはいい先生との出逢い。しかもさほど遠くない所に住いされ、すぐに飛んで来てくれる安心感。子供たちや周りの応援してくれる友達。この場で皆様に厚くお礼申し上げます。また家の改造(風呂場とトイレを改造してシャワ-浴にした。適当な広さを保ちながらも看護の導線が短く全ての処理が簡単)やさしい看護師さんのお顔も忘れられません。

私は以前からある家族の会にボランティアとして関わっていたので、福祉利用に抵抗が少なく幸いでした。また会員でヘルパ-をしている方に安心して仕事をお任せできました。会のメンバーもご自身介護でお忙しい中お便りをくださり、ひとりで頑張っているのではない、みんなに支えられて歩んでいるのだと実感させてくれました。夫の休んでいる隣の部屋で皆とおしゃべりを楽しんだこともありました。皆さんは明るく病人くさくない主人の様子に半ばびっくりされている様子でした。
子供たちには最後まで普段どおりに接して欲しいと頼んでいました。以下一周忌を迎えての嫁の言葉です。

お父さんは理想の在宅看護ができたと杉山先生に聞かされました。
私は、お父さんが亡くなるまで、お父さんの本当の病状がわからなかった。
在宅で、お母さんが暖かい看護をされていたから、
お父さんいつも穏やかで、優しくて・・・。
お父さんの表情とか仕草から病気の重さとか、測れなかった。
病気の名前も手術のことも知ってはいたものの余命が・・・ということ、全くわからなかった。
だから、いつもお父さんにもお母さんにも私<カラン>としていてお手伝いも、言葉も足りなくて、本当にごめんなさい。
でもね、わからなくて良かったってこともあるんです。
<めばえ>(絵本)も描いてもらったし、たくさん私の下手なご飯も食べてもらえたし、孫にも会ってもらえたし。
もし知っていたら、お父さんの前で泣いていたと思うから。
(それをわかっていたから夫は私には何も言わなかったのでしょう)
それにしても、何も出来なかったこと、ごめんなさい

先日大台ケ原で家族だけで慰霊を済ませました。きっといまごろは自由になった体を白い雲に乗せ世界中行きたいところへ飛び回っていることでしょう。
私のことを心配してくれた亡き夫への伝言は
「おとうさんが大きく育てた家族の絆と歌や絵・陶芸作品に囲まれ今私は幸せです」

杉山先生は今も在宅診療に熱心に取り組んでおられるとのこと、頭がさがります。急な呼び出しにも対応せねばならず、先生ご自身の生活も時には犠牲になることもおありと拝察いたします。でも患者とその家族にとっては強力な味方です。患者さんに寄り添う医者として頑張って頂きたいと切に願います。何かお手伝いできることがあれば喜んでさせて頂きます。ありがとうございました。