関白亭主さまの大往生

関白亭主さまの大往生

姑と夫の位牌を前に穏やかにFさんは微笑んでいる。クリスマスイブの夜、夫はまさに眠るように、母のもとへ向かった。そばでずっと見守っていたFさんが気づかないほど静かな旅立ちだった。 「良かったね」 遺影に話しかけるFさんの顔は満足感に満ちていた。

家での看取りは自然なこと

看護師として、かの大隈重信伯爵の付き人をしたこともある義母は、とても気ぐらいが高く、何ごとにもきっちりとした人だった。Fさんはその厳格な義母とその延長線上にいる夫に仕え、3世代で25年間暮らし、義母と夫(享年85)を同じ家で見送った。Fさんの実母も「ご無理ごもっとも」を信条に姑に仕え、家で看取った人だ。 「母は姑の愚痴をこぼす若かった私に、笑ってそんなもんよと聞き流してね。その繰り返し。そんな母の姿を見てきましたから。(家で夫を看とることは)不安はなかったですね。別にふつうのことですから」。

それと知らずにガンと歩む

Fさんいわく、夫は「がちんがちん」のまじめ人間。亭主関白を絵に描いたような人である。趣味は読書と囲碁。最初のデートもお寺参りだったんですよと笑う。  夫は退職後、脳血栓を起こして入院したことがあり、それ以後、毎月、大阪にある会社員時代からのかかりつけ医で検診を受けていた。ある時、泌尿器科での診察をすすめられた。80歳を過ぎた頃のことだ。 しかしその時点では、とくに異常はなく、毎月検査をして様子をみることになり、大きな異変もなく数年が過ぎた。 5年後の平成20年、夫は尿の出が悪くなり、一日入院をして尿道を押し広げるパイプを入れた。が、体調は思わしくなかった。毎月の検診でも腫瘍マーカーの数値が急に高くなり、病院から帰宅しても、車から部屋までを歩くことができないほど、衰弱していった。前立腺ガンがゆっくりと進行していた。夫は7月半ばに尿が出ないと苦しんだことがある。救急で運ばれた奈良の病院では処置がしきれず、主治医のいる大阪のN病院にその足で向かった。地元病院での対応の悪さに家族の不安も増していた。 「大阪といっても車で45分。困ったらいつでも来て下さい」医師の言葉にFさんは、ほっと胸をなでおろした。数日後、脂汗を額ににじませ排尿ができず苦しみだした夫を迷わずN病院に搬送。そのまま入院となる。

ある程度しっかりするまで
どうぞおいてください。

入院直後は、本を読むこともできなかった夫が秋になると「かあさん、文藝春秋を買ってきてくれ」という。読書好きの夫は、その月刊誌を毎月楽しみにしており、おもしろそうな新刊本を新聞で見つけては妻に買ってくるようにいっていたのだ。 「嬉しくてね。おとうさん、元気になってくれたなって」とFさん。リハビリもしぶしぶながらも始めてくれた。注文の多い夫のために食事を買っていき、病院食はFさんが食べたこともある。夜もどり洗濯をし、パジャマにアイロンをあて夫に届けた。ずいぶん献身的な妻と思えるがこれもFさんに言わせると、ふつうのことになる。 N病院では、年齢的にも積極的な手立てはなく、3ヶ月後には退院が予定されていた。Fさんは自宅にもどるその日まで、できる限り夫の残る体力を温存できるように一日でも長く入院させておいてほしいと懇願したそうだ。その間に夫を連れ帰る準備をすすめた。 地元のケアマネージャーより、ひばりメディカルクリニックを紹介され、ごく自然に在宅へと移行し、Fさんと夫の最終ステージがいよいよ始まった。

おとうさん、しあわせやね

「娘達がほんとによく手伝ってくれて助かりました。ひとりではとても・・」 緊急入院の際には大阪に住む次女が自宅と病院への送迎を引き受け、介護認定の手続き、在宅へ移行した際の医療者やヘルパーとの煩雑な打ち合わせなどは、近所に住む長女がFさんに代わり応じてくれた。長女は小学校の教師をしていて日中は留守だが車で10分ほどの距離にいてくれることは、やはりとても心強いことだった。 すりガラスを通して明るい陽がさす6畳間にベッドが置かれた。壁には、全国で入選した孫娘の習字が3点並んでいる。どれも勢いのある堂々とした字で若いエネルギーが伝わってくるようだ。おじいちゃんの元気がでるようにと飾られている。 杉山先生と、尿道カテーテル交換のために近所の泌尿器科の医師も往診に来てくれていた。看護師やヘルパーのサポートもあり、Fさんはひとりでも何の不安も感じなかったという。 夫はベッドでの生活だったが、症状も落ち着いており、ときどき足が痛いと言う程度で苦しがる様子もない。幸い食欲もあるので、夫の好物の肉も食べさせた。日中は好きな本を読み、時おり見舞いに来る孫たちが楽しそうに話す声に耳を傾ける。もともと口数の多い方ではなかったが「娘らはそれぞれに頑張っているし、孫もすくすく育って。おとうさん、しあわせやね」Fさんがそう話しかけると夫の目にじわりと涙が溢れた。  苦労したのはおむつの交換である。170センチとその世代としては大柄な夫の体は重く、ヘルパーが来てくれたときには、ふたりがかりで換え、夜中はひとりで1時間かけて奮闘した。12時間ごとに交換する尿パックには真っ赤な尿が溜まり、病状の深刻さを知らせていた。

いちばん安心できるひとに送られて

師走にはいると、夫の容態はゆっくりと坂道をくだるように悪化していった。 ある日のこと、夫は息をするのがつらいのか、苦しそうに喘いでいる。熱も上がっているようだ。Fさんはすぐに杉山先生に連絡をした。 「2回そんなことがあって、電話をしたら、二度とも飛んできてくれました。ほんとにありがたかったです」。 別れのときは静かにやってきた。 いつものように診察を終えた杉山先生は聴診器を外しながら言った。 「少し息があらいようだから、今日は気をつけて見てあげてくださいね」 Fさんは、いっときもそばを離れずに眠る夫の顔を見つめていた。 はぁー、はぁー いつもと違う息づかい。様子が変わるたびに先生に連絡をした。 しだいに息をする間隔が長くなり、「おやっ」とFさんが思ったときには息をひきとっていた。すーっと消えいるような最期だった。 「ほんとに安心しきった顔でしたよ」 威厳をもった夫も内面では、妻にはかなわないなと思っていたことを家族は知っている。 祭壇の前にはデルモンテのパイン缶詰が供えられている。幼少の頃に母が毎朝、食べさせてくれたと、80年あまり経った病床で夫は言ったそうだ。Fさんは小さく切って何度となく口に運んでやった。それを口にふくんだとき、何の不安もなかった幼い日々を思っていたのだろうか。 甘酸っぱい香りに送られ、母と同じく大往生で天に昇った。