Mさんはいわゆる“今どき”の人である。ジーンズ姿の彼女は43歳という年齢より、うんと若く見えた。国道からほんの少しわき道を入ったところにある、威風堂々とした田舎家、それがMさんの住まい。長男の嫁である。家の前には黄金色に実った稲穂が広がっていた。一家は、兼業ながらも田畑を守り堅実に暮らしている。家族は夫と小学生の息子、義父母とは廊下を隔て別世帯である。専業主婦をしっかり務めながらも、学校行事や塾の送迎で夕方遅くまで帰らないこともある。
「両親や義姉からは、小言ひとつ言われたことありませんでした。喧嘩なんかない家族。あの時が初めて・・」
大喧嘩になった。余命いくばくもない義父を入院先の病院から、家に連れ帰るとMさんが言いだしたのだ。
「病院が(おじいちゃんを)おいてくれるって言ってるのに、なんで家に連れ帰らなアカンのん?」と病弱な義母は途方にくれ、
「病院ほど“良いところ”はないのに、なんで?もしもの時は家でどうするの?私には解らない!」離れて暮らす二人の義姉は、首をふるばかりだ。Mさんは専門の医師や看護師が往診に来てくれること、住み込みで家政婦に来てもらい、義母や義姉たちにいっさい負担をかけることはない、と言い切った。が、猛反対は続き、話し合いは平行線のままである。もう、時間がない。今しかない。Mさんは突き動かされる強い思いに従い、強行突破。夫と共に義父用のベッドを自宅に運びいれた。
「親の介護を、自分をすべて殺してするっていうのは、私にはムリなんです」
彼女の率直なもの言いに説得力を感じた。誰もが感じているが声には出しにくい問題である。
Mさんの考える在宅ケアは、子育てを優先する生活は守りながら、自分たちはできる限りのことをするというものだ。義母は高齢のうえ、持病がある。義姉達にはそれぞれの事情があり、義父の介護を充分にできる状態ではなかった。家族がそのような状況にあるのなら、自分が不在にする時に助けてもらえる家政婦に住み込みで来てもらえばいい。この割り切り方が「私は今どきの人」と言わせるのだろう。
割り切るといえば、もうひとつ大切な費用の問題もそうである。介護にかかる費用は、義父に支給される年金や介護保険のお金を使う。ただ漠然と使うのではなく、できる限り有効に、きっと義父が望んでくれると信じた使い方をした点である。実際に、在宅に踏み切った原動力の一つには、「同じ使うなら生きたお金にしたい」という思いがある。病院の入院費、個室代、夜の付き添いを依頼していた家政婦への支払いを考えれば、十分に家で、家政婦を住み込みで雇って、医師や看護師に来てもらうことができる金額であった。
その一方でMさんの原風景の中には、医師が実家に往診に来る姿があり、病院であっても、家族や親戚が助けあって面倒をみるという体験をしてきた。だから、そばにいて病んだ義父の手を握り、さすって、正面から向き合うことが自然にできたのであろう。そうでなければ、誰に頼まれるわけでもなく、逆に猛反対をされてまで、義父を自宅に連れ帰ることはしなかったであろう。クールに割り切るだけの人には絶対にできないことである。そして、それは自分が後悔しないための行動でもあった。
話の発端は、5年前(平成15年)に義父(享年82)がA病院で大腸ガンの摘出手術を受けたことから始まる。その後、胃ガン、腹膜への転移、腸閉塞とこの5年の間に何度も入退院を繰り返した。その度にMさんは夫と助け合って介護を支えてきた。術後のせん妄があるときには、夫は病院に泊り込んで父に付き添ったこともある。
この間に、地域医療に通じる看護師Kさんと出会えたことが後にMさんの力になる。
ガン発覚から5年後の平成二十年、尋常ではない痛みが起こった。ガンの悪化である。再びA病院に入院。気心のしれた看護師もいて義父の気持ちは安定していたが、そこも積極的なガン治療をしないのであれば3ヵ月で転院をしなければならない。やむなく受けた抗ガン剤治療は、義父にはとても持ちこたえられるものではなかった。
A病院で、今後の療養場所を問われた家族は「在宅はできない。病院で」と即座に答えた。在宅ホスピスを知らなかったMさんは、義母たちが納得しているのであれば、転院に反対する理由はなかった。
しかし、治療をしない患者を受け入れる病院は数えるほどしかない。立地を考えれば、むしろ選択の余地はなかったといえる。「治療はせずに最後まで看取る」という条件にあった病院は、Mさん宅から車で1時間ほどかかるB病院だった。
そこでのできごとは驚きの連続だった。高カロリーの栄養を摂れるようA病院では、胸部にポート(中心静脈栄養)が付けられていた。それを見て「これはなに?」と首をかしげるB病院の看護師。‐此処でだいじょうぶなんだろうか‐不安になった。結局、ポートは使われないまま、足に点滴が始まった。足は見る間にむくみ、歩けなくなった。こまめにマッサージをすれば、むくみは軽減するのではないか、と素人目にも思えた。ある夜、義父がトイレへ行こうとベッドから下り,その場で粗相をしてしまうと“手のかかる患者”となり、夜中も付き添いをするよう言われた。子育ての合間をぬって昼間はMさんが見舞い、夫は仕事から戻ると早々に夕食を済ませて病院で明け方まで父の枕元で過ごし、帰宅後、また仕事に向かった。それに加えて、休日にはこれまで父の手伝い程度にしていた農作業も全て、夫が担うことになる。夫は心身ともに窮地に追い込まれていった。
義父は、新しい環境になじむこともできず、イライラとしていた。病院で、口にできるのは水と飴だけ。いったいここで、何の楽しみがあるのだろう?A病院では、気分が沈むと父はナースセンターでおしゃべりをしていた。それを思い出し、看護師に頼んでみた。翌日、見舞いにきたMさんは目を疑った。抜け殻のようになった義父が、ひもで車椅子にくくりつけられ、ナースセンターにいたのだ。あんまりだ。涙が溢れでた。
「違う。絶対に違う。こんなのおかしい」
込み上げる思いを抑えることはできなかった。
そんな時、母方の親戚から、在宅ホスピスができることを聞き、「これだ」と思った。今かかっている入院費用を考えれば、在宅でも問題なくできる。しかもガンケアの専門医である先生が往診に来てくれ、痛みをとることもできるという。Mさんに迷いはなかった。
「おじいちゃん、家に連れて帰るから。帰りたいでしょう?絶対に帰ろうね」
早速、懇意にする看護師Kさんに相談すると、すぐに杉山先生が病院へ父の様子を見に行ってくれた。一方で、夫は迷っていた。これまで家で療養すると症状が悪化した経緯を思えば、在宅で病院のような看護ができるとは思えず、妻Mさんへの負担も大きくなるであろう。何より母、姉たちは父を連れ帰ることに猛反対をしているのである。しかし、父の窮地を救う光は見えない。結局、妻と杉山先生に背中を押されるように在宅ケアを決意した。問題は家族の説得である。病院という場所に全幅の信頼を寄せている母や姉たちには、いくら話しをしても病院での現状に気づいてはもらえなかった。
「機嫌よくしてはるのに、在宅なんてもってのほかや」と冒頭のやりとりとなるのである。
「今から思えば、異常ですね。でも、それしか方法がなかった。もう、必死だったんです」
潤んだ目で唇をかみしめた。B病院で過ごした2週間で、義父は心身ともにひどく衰弱し、一刻の猶予もない状態であったため、義母をだますようにして自宅へ連れかえったのだ。
Mさんの実労働としては、日中の介護と、義父と家政婦の食事を用意すること、洗濯が増えた程度であった。子どもの用事で外出もした。家政婦は、下の世話から夜の介護までをこなし、Mさんの良き相談相手にもなってくれた。信頼できる医師や看護師、介護経験のある友人達も、あたたかくMさんを励ましてくれていた。
「ほんとに皆さんが助けてくれたから、できました。磁石で吸い寄せられるように、良い人達が周りにいてくれて・・。ああ、私は守られているなって感じていました」ひとりの人が全てを抱え込まないようにすることは、在宅ケアでは、重要なことである。
痛みのケア、栄養管理、吸引や酸素吸入など病院同様、いやそれ以上のケアがなされ、あれほど反対していた義母も「こんなに家でしてもらえるとは知らなかった」と驚き、満足の笑みを浮かべた。義父は痛みから解放され、ごくわずかだが好物の刺身や肉も口にすることができた、実弟が見舞いに来てくれた時には、とてもいい笑顔を見せたという。ただ悔やまれるのは、在宅ホスピスをもっと早く知っていれば、義父の寿命ももう少し延びたかもしれない。家に帰ってきて良かったと、義父自身がもっとはっきりと感じられたかもしれないということだ。
自宅に戻り3週間後の昼下がり。枕元に家族が揃うのを待って、義父は逝った。
「ありがとう、ありがとう」
夫は父に声をかけている。周りを囲んだ孫のひとりの声が聞こえた。
「あっ、おじいちゃん泣いてはる」
それが最期のときだった。