好きな服を着て、好きなものに囲まれて

好きな服を着て、好きなものに囲まれて

往診に同行し、初めてお会いしたとき、Yさんは明るいスカイブルーのカーディガンを羽織り、居間のソファーにゆったりと腰かけていた。上品な風合いのそれは、Yさんによく似合っていた。
「母は寝巻きのままではいや、病人みたくしたくないといって、朝起きたら必ず着替えていました。好きな服を着て、好きなぬいぐるみをそばに置いて。ぺ・ヨンジュンが大好きで、部屋には、大きなポスターも貼っていました。(亡くなる)間際まで、お化粧もしてたなあ」
ひとり娘のKさんは、微笑みながら頬に手をあて白粉をはたく仕草をしてみせた。装いや化粧は、Yさんらしく生きる証でもあった。
すい臓ガン末期であったYさん(享年73)は、夫Sさんと娘Kさんに見送られ、自宅のベッドで眠るようその生涯を終えた。大阪で暮らす娘のKさんと助け合って、と聞いていたが、やはり男手で妻を看る苦労は大きかったのでは?
「いやぁ、たいへんなことはない。娘が来てくれましたし、最後はずっと泊り込んでくれました。えらいこっちゃなあ、と思ったのは最後の一週間だけ。(妻は)手がかかりませんでしたから。先生にもお世話になって、ストレスがなくて(寿命も)少し伸ばしてもらった。けど・・73歳は早過ぎましたなあ・・」
数日後、教会でYさんを送る会が開かれる。その打ち合わせを済ませたばかりのおふたりに話しを伺った。

つらい抗がん剤はもうやめよう

間質性の肺炎を長く患い、呼吸器内科で定期的な検診をうけていたYさんに異変が起きたのは平成19年7月のことだった。下痢が続き、同じ病院の消化器内科を受診すると、すい臓にできたガンは既に手のつけられない状態であり、その命は、一年はとてももたないであろうとの診断だった。
「何年も、血液検査やCTを受けているのに、なんで(すい臓にできたガンを)わからなかったのかな・・」
その場面を思い出し、Sさんから後悔ともつかないため息がもれる。ふたりは幼なじみで、翌年(平成20年)春には、結婚50年を迎える予定であった。はたして、その日を家族で祝うことはできるのだろうか・・。
通院での抗がん剤治療が始まった。4週間点滴をし、2週間休む、これをワンクールとし、2クール続けた。薬は良く効き、腫瘍マーカーの数値は下がり、皆で喜んだ。しかし、その代償も大きかった。副作用に苦しみ、食欲が落ちた。2クールめを終える頃に、味覚がなくなると、食べることも飲むことも母は嫌がるようになり、生きる気力が萎えていくのがわかった。 今はなんとか小康状態を保っており、それ以上の治療は見送ることに決めた。それは、秋も深まる10月のことだった。

希望どおりの在宅ケアが叶って

大きな変化がないまま、時は流れ、翌年の平成20年3月、Yさん夫婦はめでたく金婚式を祝うことができた。しかし、病気は少しずづ、確実に進行しており、その頃、医師から紹介されたのが、ひばりメディカルクリニックだった。 病院に入院することなく、できるなら最後まで家で、と思っていたYさん夫婦にとっては願ってもない話であり、在宅ケアはごく自然な成り行きであったといえる。翌日、父Sさんが面談に訪れ、説明を受けると、早速、明日から往診しましょう、と話は決まった。先生や看護師が訪ねてくれ、いつでも連絡がとれると聞けば、三人に何の不安も躊躇もなかった。

ストレスのない自宅での生活が生きる力に

平日は夫婦ふたりで暮らし、仕事を持つKさんは毎週末を両親と過ごすようになった。時おり顔を見せる孫娘たちの来訪を両親は喜んだ。ふだんの家事は父が担当した。食材の宅配を利用したり、週末に買い置きをしておけば、食事の問題もなかった。料理をすることが生きがいでもあった母は、自分が食べることはままならなくても、手助けを受けながら、調理をし、娘が帰る時には、数種のおかずをもたせることも忘れなかった。
「先生が痛みをうまくコントロールして下さったのは、ほんとうに助かりました。いろいろと試してみて、母に合う薬がみつかってからは、痛みはなかったようです」とKさん。痛みから解放された母は、車イスを積めば、家族や古くからの友人達と花見や公園の散策へ、と出かけることができた。美しい自然の中で、大切な人達と過ごす時間は、Yさんのこころを癒し、生きる希望となったことであろう。
しだいに外出ができなくなっても、Yさんはひどく落ち込む様子もみせず、愚痴を言うこともなかったという。いつものソファーに座り、韓流ドラマを娘と一緒に見ることを楽しみにしていた。

患者の気持ちに寄り添って

「ああ、できなくなっちゃった・・」
包丁を持つ手を力なくおろし、自分に替わって野菜をスライスする娘の手元を黙って見つめた。あれほど得意としていた料理ができなくなったのだ。それは、妻、母として生きてきたYさんをひどくがっかりさせるできごとだった。
5月にはいり、ガン特有の倦怠感がYさんを襲い「しんどい」と口にするようになった。ガンの痛みは薬で抑えることはできるが、全身に起きる“だるさ”は、手の尽くしようがないのである。
「どうですか」 と先生。
「ええ、食欲がなくて。しんどくて・・」
「ううん、少し食べられるように点滴、考えてみるね。しんどいなあ・・看護師がしてるアロマのマッサージ(家族の方も)やってみますか」
小さく頷くYさんの手に、杉山先生が処置した点滴が落ちていく。用事で出かけた父にかわり、先生の指示を聞き逃さないようにメモをとりながら、Kさんはその様子を見守っている。Yさんは長時間かかる大きな点滴を嫌がり、数分で終わる短いものを数回に分けてするようにしていた。医療業務の流れが優先されがちな病院での治療に対し、患者の気持ちをできる限り尊重して柔軟に対応できるのは在宅ケアならではといえる。
Kさんは母の気分を和らげるために、看護師にならい、アロママッサージを試してみることにした。やさしくなでるように手当てをすると、「いいにおいね」と母は嬉しそうに微笑んだ。母の穏やかな表情から、人を癒し元気づけるのは、「薬」だけではない、とKさんはつくづく思った。

静かに運命を受けとめて

在宅ケアを始めて3ヵ月となる6月頃から、目に見えて母の体力は衰えていった。親戚のなかには、両者を気遣い「入院」を口にする人もいたが、Kさんも父も、一度もそれを考えることはなかったという。患者と家族の心身を、親身にサポートしてくれる医療があれば安心して、家族だけで最後の貴重な時間を過ごすことができたからだ。母も「事故で突然、命を落とす人はお別れも言えずに逝かなくちゃいけないけど、私はまだもう少し生きられるし、ずっとラッキーな方だわ」と、静かに自分の運命を受け入れているようだった。
食事は、ほとんどとれなくなっても、いつものように着替えをし、髪をまとめ、食卓に向かった。
「黄疸がでているから、今週は気をつけてあげて・・」
杉山先生が、別れの日が近いことをKさんにそっと耳打ちをした。それは、末期がんの宣告を受けて1年が過ぎた7月のことだった。母は別れを惜しむように、がくんと力を落とすかと思えば、また少し元気になりを繰り返し、その頃でも湯船につかりたいと、お風呂にも入るなど、先生を驚かすこともあったという。最後の3日間以外はトイレも支えをかりながらも自力ですませていた。

大切な人の姿を目に焼きつけ、旅路に着く

「お父さん、いま行ったらだめ!」
水やりをしに庭へ行こうとする父をあわてて、呼び止めた。ここ数日、母は高熱にうなされ、問いかけに、頷きはするものの、目は閉じたままであった。ふたりは、昼夜交替で片時も、そのそばを離れず、わきの下、首の後ろ、股関節あたりを氷でひたすら冷やし、見守っていた。
額に手をあてながら、「お父さん、暑いから、水やりするんだって」そう、Kさんが話しかけると、数日ぶりに、母はその目をあけたのだった。ドキリと、胸に響くものがあった。
急いでベッドに駆け寄った父の顔を母は、じっと長い間、見つめていた。やがて、ゆっくりとKさんの顔に視線をうつした。
「私たちをじっくりと見てくれて、ああ、最後のお別れだなって、はっきりとわかりました」
その後ほどなくYさんは、ふたりが見つめるなか、静かに息をひきとった。

「ヘンなの着せられるのイヤだったんじゃないかな。ふふ・・」
母が旅立った後、準備された風呂敷包みをKさんがあけると、なかには、可愛らしいネグリジェと十字架が用意されており、「これを着せてください。ありがとう」
そう書いたメモが添えられていた。