離れて暮らす一人暮らしの母が病気になったら・・。誰にも起こりうる事態である。ふたりの兄、長兄は退職して時間に余裕はあるものの、男手で母の介護にはムリがあり、働き盛りの次兄は、仕事をはなれるわけにはいかない。大阪で一人暮らしをしていた娘のKさんは、残された時間を母と暮らし、看病に専念することに決めた。そしてついひと月前、38日間の介護の末に、その人生を見届けた。
「うーん、淋しいけど、今では悔いがなくて、何かあっけらかんとしたもの。ある意味では自分で自分を褒めてあげたい・・・。精神的にも体力的にもきつかったけど、すべてが終ったら、何か達成感さえ感じました。在宅で母を看とることができて、ほんとに良かったです」
そう話す、Kさんのさばさばとした表情が印象的だった。
定年後は空気のきれいな郊外で暮らしたい。大阪暮らしが長かった両親が新天地として選んだのは奈良だった。昭和62年に居を移した。みどりの多い美しい環境と近隣に住む人たちの穏やかな人柄を母は大いに気に入り、奈良に移り住んだことをとても喜んだ。しかし、残念なことに、そこでゆったりとした夫婦の時間を楽しむ間もなく、二年後に父は他界してしまう。七十歳を過ぎた頃から、母は娘との同居をさりげなく口にする。が、母は人一倍元気で健康に心配はない。仕事の便宜上もKさんには、大阪住まいが好都合である。同居はせず、週に一、二度は顔をのぞかせ、母娘で旅行へも出かけた。もともと、社交性があり、行動的な母は、趣味の俳句やカラオケ、卓球を楽しみ、地域活動のハイキングにも積極的に参加した。母のそんな悠々自適な暮らしにも、いつか終わりがくる、とはその時には、Kさんは思いもしなかった。
「何にもする気がなくなった」
2年ほど前に母は、そう言ったそうだ。しかし、それも、食欲が少し落ちたのも、80歳を過ぎているのだからと、Kさんは特に気にとめることはなかった。今思い返せば、それがひとつの兆候だったのかもしれない。
平成20年、いつものように母娘は正月旅行に出かけた。行き先は九州である。母は変わった様子もなく、楽しい旅となった。変調が現われたのは、翌2月のことだった。Tさんはお腹がはり、げっぷなど不快な症状に悩まされるようになり、クリニックを受診した。3月、Kさんは長兄と、母の検査結果を聞きに訪れ、医師の言葉に息をのんだ。‐すい臓がん、ステージIV、もう手のつけられない状態である‐
「なんや、神妙な顔して、ガンか?」
尿検査から戻った母は呆然とする二人を見ていった。慌てて、Kさんはその場をとりつくろい、病院で再検査の必要があることだけを伝えた。毎年受ける健康診断の結果も良好で、母は、不調の原因をカラオケで使ったマイク‐それは押入れの奥に長くしまわれていた‐に悪いものが付いていたからだと、思い込んでいるようだった。生きる気力を失くすから、と告知に反対する長兄。次兄とKさんは、母がやり残すことのないように告知した方がいいのではないかと言う。兄妹で意見がまとまらず、真実を隠したままことは進んでいった。
数年前に発症していたと思われるすい臓ガンは、種がはじけるように肝臓、腹膜へも転移しており、余命は3ヶ月から半年との診断だった。検査は苦しかったのだろう、肩を落としてとぼとぼと歩く母の姿は、切ないほど小さく見えた。お腹に溜まった水をぬき少し楽にはなったが、それ以上の積極的治療がない場合、そこに長期の入院はできない。退院後は、医師が常駐する施設に預けるのが良いのではないかと兄妹は考えていた。その時、担当医師はもうひとつの選択肢「在宅ホスピス」があることを話してくれた。高齢患者の多くは、住み慣れた家に帰りたいと望む人が多く、奈良には幸い、在宅ホスピスを専門とする「ひばりメディカルクリニック」があるという。母の命は、あと数ヶ月である。在宅専門の医師がいてくれるのなら、その数ヶ月間、母の元に泊り込み、自分ひとりででも、看ることができるかもしれない。桜が咲き誇る季節、こうしてKさんの奮闘の日々は始まった。
Kさんは母の介護をしながら、週2日は仕事に出かけ、留守宅は、ヘルパーに任せた。家に戻った時点では、自力でトイレへ行くこともできたTさんだが、食欲もなく、日一日と目に見えて弱っていった。
尋常ではない倦怠感、腰の痛みに「このしんどさは何やろう?」と何度も呟いていた。病名を知らせずにいたKさんの心中は複雑だ。もし、母が面と向かって問えば、真実を話すつもりでいた。が、独り言のように繰り返すだけで、ついに娘にそれを問うことはなかったという。見舞い客が来る度に「ほんとにバカなことしてしまったわ。マイクについたダニを吸ってしまって・・」と話し、それ以外は思い当たる原因がないと言う母に、敢えて病名を知らせる理由はなかった。
退院から2週間を過ぎた頃にはトイレへ行く母の足取りはおぼつかなくなってきた。「はぁーはぁー」と息遣いも苦しそうだ。Kさんはクリニックに連絡をとり事情を話すと杉山先生がすぐに診察にきてくれた。酸素不足による呼吸困難を起こしており、緊急で酸素の手配をすると、その晩には様子が落ち着いた。‐こんなことなら、もっと早くに連絡をとれば良かった‐万一、発作が起きたら先生に電話をするか、救急車を呼ぼうと決めていたKさんだが、初めての経験で、母がどんな状態になれば、電話をすれば良いのか判断がつかずにいたのだ。そう伝えると先生は「どうしようか迷う前に、夜中でもいいから、とにかくボクに電話してきて。ボクが判断するからね」。杉山先生には医師と患者、という心的距離を感じさせない、ざっくばらんな雰囲気があり、まるで古くから知っている友人と話しているような安心感があったという。
「しんどい・・」5月に入ると、気丈な母の口からため息ともつかぬ言葉が繰り返されるようになった。Kさんは仕事を休み、付きっ切りの看病を始めた。しかし、どんなに母が苦しそうでも自分にはどうしてあげようもない。ただ痩せたからだに触れ、さすってあげることぐらいしかできない。ある晩、ようやく眠りについた母に語るともなく言った。「お母さん。ごめんね。ごめんね」。まさかその言葉を母が聞いていたとKさんは思いもせずに。子を思う親心の深さははかりしれない。それ以後、母は娘の前で「しんどい」と発することはなかったという。
爽やかな風が吹く心地いい季節である。帰省した甥夫婦を連れて長兄夫婦が訪ねてきた。母は喜び、笑顔で写真にもおさまった。長兄家族は久しぶりに食事に出かけるという。その頃、母の容態の悪化にともない、Kさんの負担は重くなり、疲れも溜まっていた。その晩のこと。添い寝をしていたKさんは、苦しげなうなり声に気づいた。腰が痛むようだ。1時間ほどマッサージをして、Kさんがひと眠りしようとすると、再び「うーん」と喘ぐ声がする。暗闇の孤独の中で、3時間あまり、ひとりマッサージをし続けた。ご馳走を囲む楽しげな兄家族の様子が浮かんでくる。私だって、皆と美味しいもの食べに行きたいよ・・それまで考えもしなかった想いが恨み言となって脳裏をよぎった。連日の疲れと寝不足が一気にKさんを襲う。もうだめだ・・。
翌朝、往診に来た先生にその思いをぶつけた。「先生、もう、わたし、限界です」
憔悴しきったKさんに、先生は言ったそうだ。
「あなたがひとりで孤軍奮闘して、どれだけ頑張っているか、皆が知らなくても、ボクはちゃんと知ってるで」
こらえきれずに涙が溢れてきた。いま病院に入院させたら、母の最期を看取ることができないかもしれない。
「お母さんのためじゃなく、自分が後悔しないように、もうひと頑張りしてみない?」
Kさんは、先生の言葉に黙って頷いていた。
Kさんに救世主が現れた。和歌山に住む従姉妹のCさんだ。「Kちゃん、手伝いにいこうか」。彼女は父の介護をした経験から、Kさんの苦労を十分に理解してくれた。近所に住む長兄は庭の水やりなどを手伝ってはくれるが、実際男の介護は難しい。ヘルパーや看護師の助けは借りてはいるものの、一日の大半は一人で介護を引き受けていたKさんにとっては、願ってもない申し出であった。話し相手がいると気もまぎれ、何より助かったのは、自立することが困難になってきた母のトイレの介助だったという。三日間、泊まりこみで助けてくれた。おりしもやってきた生涯最後の「母の日」。兄妹は重ねた年輪の数と同じ、84本のカーネーションに感謝をこめて母に贈った。
いよいよ別れの日は近い。従姉妹Cさんも放っておくことができず、再度泊り込みに来てくれていた。今日明日には・・と先生から耳打ちされたKさんは、母が会っておきたいであろう数人に連絡をとり、再会を叶えた。
夜更けから母の様子はおかしくなった。緊急連絡を受けて、早朝6時に先生が往診にきた。緊迫した夜を過ごしたKさんは、先生の顔を見るだけでホッと安心できた。それから母は深い眠りにはいる。その3時間後、そばにいたKさん、従姉のCさんもそれと気づかないほど静かに母は天国に旅立っていった。すぐに駆けつけた先生がKさんの肩をポンと叩いて言った。
「よかったね」
最期までそばに付くことができ、母は苦しむこともなかった。頷くKさんに涙はなく、大仕事を成し遂げた後の気だるさと満足感のなかにいた。
「全力だし尽くしたから、ほんとに後悔はないなあ。(介護期間中はハードで)ダイエットできたのに、また食欲もどってきたかも・・」
屈託のない笑顔が光っていた。