ガンと共に生き、大往生で迎えた天寿

ガンと共に生き、大往生で迎えた天寿

「大往生」。それは誰もが望むような、苦しみのない安らかな死。ガンを患いながらも、病気を意識することなく、3年半あまりを家族と過ごし、ロウソクの火がふっと消えるように旅立ったOさんの死は、まさに大往生と呼ぶにふさわしいものだった。
「ああ、おばあちゃん、良かったね。そう思いました」
あっけないほどの母の旅立ちを目の当たりにして、その時は涙もでなかったと、娘S子さんは言う。
だって―亡くなる一週間前に夫の命日の法要を済ませ、5日前には娘S子さんと孫娘の3人で旅行に出かけ、2日前まで自力でトイレに行き、家族も可愛がっていた犬も最期までそばにいた。死の恐怖も感じないまま、父や兄のもとへ行けたんだから―

乳ガンからリンパへ転移

悲しみは続いてやってきた。夫を亡くし、ふた月後には最愛の息子までが胃ガンで他界。Oさんは悲しみにくれた。片方の乳房に大きなしこりを見つけたのもその頃だった。すぐに乳ガンの手術を受けた。幸い予後は順調に回復し、しばらくは変わりなく過ごしていた。ところが術後4年が過ぎた頃、片腕がパンパンに腫れ上がってきた。ガンのリンパへの転移があり、これだけ腕が腫れてしまったならおそらくもうひくことはないであろう、というのが病院で受診した結果だった。そこにはベッドの空きがなく、他の病院を紹介するという。が、87歳になる高齢の母を入院させる気持ちにS子さんはどうしてもなれなかった。

家で看てあげたい

S子さんは、父を病院で看取った。それは悔いの残る苦い思い出だった。快復する見込みもなく続けられる延命治療を父は嫌がり、体にいくつも付けられた管を抜きとり、「もう、(治療は)ええで。家に帰りたい」と何度も訴えた。S子さんは父の思いを叶えてあげたいと、近所の開業医に在宅のサポートを依頼するが、断られてしまう。夜になると、病室で父はうなり声をあげ、悲しみの中で逝った。父の慟哭と、望みに応えられなかった後悔は、今もS子さんのこころに残っている。
「元気になれるものならいいですけど・・。危篤状態も3、4回繰り返して、可哀そうで。最後は、すっと逝かせてやってほしいと思いましたね」
ある日、S子さんは新聞で、在宅ホスピスをサポートするひばりメディカルクリニックを紹介した記事を見つける。
「その時は、母も元気でしたが何かあれば入院させずに済むと思って、それをとっておいたんです」。
それで母の病状が悪くなり、入院の話が持ち上がった時には迷わず、ひばりメディカルクリニックに電話をした。幸運なことに、先生はすぐに来てくれるという。家族の協力も得られる状況である。S子さんの気持ちは決まった。

ガンだけでなく、トータルにケア

通院でホルモン治療も平行して行いながら、在宅でのケアが始まった。その時点ではガン特有の痛みはなかったようだが、もう治らないと言われてしまった腕を見て、Oさんは病気への恐怖心を募らせていた。人は話しをすることで気分が軽くなるものだが、相手が頼りとする者であればなおさらである。杉山先生はおばあちゃんの話しに耳を傾け、ガンという病気だけでなく、持病のひざ関節の痛みの治療や、これまでは定期的に別の医院で受診していた高血圧や心臓病の投薬も合わせて引き受けてくれた。看護師は、Oさんと明るくおしゃべりをしながら、腫れ上がった腕のリンパマッサージを丁寧に行い、詰まりを流していった。便秘を訴えると「任せて」と笑い、お腹のマッサージもしてくれ、おかげで排便ができるとずいぶん楽になった。

腕の腫れがひく

Oさんに劇的な変化が現れたのは、それから間もなくのことだ。あれほどパンパンにはった腕から徐々に腫れがとれ、もう片方の腕と変わらないまでになったのだ。
全ての治療がうまくかみあい相乗効果を生んだ結果だった。連携病院の医師も嬉しい誤算と目をまるくしたそうだ。それにしても、Oさんの喜びはどれほどだっただろう。腫れや痛みがとれれば、好きな編み物にも精をだすことができる。気力も充実して、状況は良い方向へと向かっていった。
その後、3年あまりは、体調に多少の波があるものの、元気なときは先生達に来てもらうのが気の毒と思えるほど、穏やかな日々を過ごしたという。Oさんの自宅での暮らしは、家族中の編み物をし、犬を可愛がり、S子さん夫婦が趣味で作る野菜畑に行き、嬉しそうに豆をもいで収穫もした。友達もできたと、公共のデイサービスへ元気に参加し、美味しいものを食べに家族旅行にも出かけた。

行きたいところへはどこへでも

Oさん(当時90歳)がついに終末期へと歩を進めたのは亡くなる半年前の暮れのこと。ものが食べられず、からだも痩せてくると「もう、アカンのかな。早く、お父さんやTちゃん(長男)のとこに行きたいねんけどなぁ。死ぬのは怖いわ」と落ち込んでいった。これまでマンツーマンのケアを受けながら体調は安定していたものの、「ガン」が根治したわけでない。マーカーの数値はガンの存在を示している。先生は「大丈夫やで怖くないようにしてあげるからね。痛みがあったら我慢せずにすぐに言って」とOさんを励まし、家族には桜の頃まで・・と告げた。
先生の言葉に安心したのか、覚悟を決めたのか、以後、Oさんは死を口にしなくなった。
生きる意欲が湧くようにと、家族はOさんの好きな旅行を話題にした。Oさんも楽しみを目標に、体調に気を配った。旅先では余命もなんのその、Oさんは日本海で蟹を食べ、淡路島で淡路牛ステーキを食べと、心残りを一つひとつ消すように家族との旅行を楽しんだ。
いつしか桜は花びらを散らせ、瑞々しい青葉の美しい季節となっていた。

死への身支度を整えて

「娘が帰省したので、6日、7日におばあちゃんと私娘たちの4人でびわ湖へ行ったんですよ」とS子さん。
「えっ?」と思わず聞き返した。亡くなられたのは5月11日と聞いていたからである。杉山先生がなんとか行けるようにと数日前から調整をしてくれていたそうだ。さすがに食事はできず、しんどそうな様子もあったそうだが無事に帰宅。
その2日後。食欲のない母にS子さんは粥をすすめた。が、Oさんはわずかに口に含んだだけでやめてしまった。Oさんが急に動かなくなったのは、その直後のことだ。白目をむいている。先生が駆けつけた。脳梗塞を起こしていた。一命をとりとめても寝たきりになるでしょう。S子さんは覚悟をした。ところが、その晩「S子、S子・・」と母が呼ぶ声で目が覚めた。もう話すこともできなくなるかと思った母はトイレに行きたい、と言い、介助をしてやると自力で向かったのだ。
「お母さんはね、不死身のふじ子ちゃんなの」とS子さんは笑う。また、翌日には風呂に入りたいと言い、孫娘も手伝い入浴をさせると満足そうな表情をみせたという。すべて思い残すことはなくなったのか、Oさんは静かに最期を迎えた。
「おばあちゃんの手はきれいやなあって、主人が手をさすっていたら、ガクッて。それでおしまい。苦しむこともなくて・・。杉山先生や看護師さんのケアがなければ、家でこんな生活とてもできなかった。ほんとうに感謝しています」
治療法がない、ということはそこで人生が終るということではない。その人らしく生き、最後まで命を輝かすこともできる。家族の愛情と、そばで静かに、しかし全力でそれをサポートする医療があれば。Oさんの生き様がそれを教えてくれていた。