じぃじの贈り物

じぃじの贈り物

部屋に野鳥の澄んだ鳴き声が響いている。Iさんはベテランの小学校の先生だ。子ども達の質問にちゃんと答えられるように野鳥の声をCDで聞き、勉強しているそうだ。
春を待たずに逝った夫Jさん(享年62)は57歳で早期退職をするまで中学校で数学を教えていた。引退後は、近所に住む孫―幼い兄弟たちと過ごす時間を何より大切にしていた。いろいろな体験をさせて、ものごとを味わい、感性を養うことが大事と、あちこちに連れて出かけた。
1年前の春の海。「地球が丸いのがわかるやろう」。そう言って、砂浜で遊ぶ子ども達を見て微笑むJさん。「子供を見てるときの顔が一番穏やかで。いつもこんなんだったから」と、その時の写真を窓辺に飾った。

検診の落とし穴

毎年、人間ドッグを受け、健康には留意していたはずのJさんに異変が見つかったのは平成19年4月。 子ども達と海へ出かけてひと月が過ぎた頃のこと。ショックだった。以前、胃潰瘍を患ったがその後は異常もなく過ぎていた。しかし最近は食欲がなく、肩も痛い。早速、夏に胃カメラの予約をいれた。 が、再検査を待たず、6月にJさんは大量に吐血してしまう。「死ぬとこやった・・」夫からの知らせを受けて慌てて帰宅した妻Iさんはトイレに残った褐色の血痕に驚いた。心配だが週末は孫たちと出かける約束もあり、 そのまま様子を見ると夫はいう。その二日後。孫たちを連れ博物館に出かけたが元気がない。帰宅後、Jさんはいつものように痛み止め薬を飲んだ。 すると額にじわりと冷や汗がにじんだ。間をおかず、自宅の一室で洗面器2杯分はあるかと思われる多量の血を吐いた。駆けつけた救急隊員の呼びかけに頷きながらも、次第に意識は薄れていった。

延命治療のはじまり

Jさんは、出血性ショック症状を起こしており、なかなか出血はおさまらなかった。数日は生死の境界線をさまよう。まだ死ぬわけにはいかない。そんな思いもあったのだろうか。Jさんは何とか一命をとりとめた。後に知ることになるが、服用していた薬は、荒れた胃をさらに悪化させる副作用をもっていたのだ。
検査の結果は末期の胃がん。肝臓への転移もある。誕生日を目前にした7月、Jさんにもその事実は伝えられた。積極的な治療法はなく、延命治療として抗がん剤治療を受けるかどうかの選択をしなければならない。Jさんは迷わず、少しでも長く生きる道を選び、胃がんに有効とされるTS1及びシスプラチンを投与した。 しかし薬との相性が悪く、激しい嘔吐、薬疹に悩まされ、断念。その後、大阪の病院で入退院を繰り返し、治療を模索することになる。

数十年ぶりの新婚生活

8月にJさんは一旦帰宅。どうしても孫たちにパンダを見せてやりたい、と痩せ細った体で白浜へも出かけていった。新学期が始まる9月、妻Iさんは介護休暇をとり、夫の看病に専念することを決めた。
夫婦二人三脚で、抗がん剤治療は再開した。
「はじめてと違うかなあ。あんなに長いこと一緒にいたの。若いころ、手もつないで歩かなかったし。介護ではしっかり手を握り合って、今から思えば新婚生活してたみたい・・」
あはは、とIさんは楽しそうに笑った。共に教職に就きながら、ふたりの子どもを育てた。多忙で、すれ違いも多く、ゆっくりと話すこともなかったという。夫と毎日いっしょに過ごせた半年あまりは、介護の苦労も感じず、むしろ楽しい日々だったとIさんは振り返る。
病院での治療は、本人が辛いわりに、その効果はほとんど期待できない状態であった。副作用が強いため、抗がん剤薬も本来使う量の80%。またその量の80%と減らし、最初に比べるとわずか10%程度の投与に過ぎない。
医師から、在宅医療の専門医として杉山先生を紹介されたのは10月のことだった。奈良の担当医師からもその名前は聞いていた。その時は、在宅での治療もよいのかもしれない、と漠然と考えたままになっていた。ふたりの先生が太鼓判を押す先生ならと、Jさん夫婦は少し安心した。しかし、それでもJさんの胸中は複雑だった。病院を去ることは、一縷の希望の光を自ら消してしまうことになるのではないか・・。
病院から、外泊で家に戻ったJさんに杉山先生は言った。病院と同じ治療ができます。Jさんの好きなように暮らしてください。それを24時間体制でサポートします。万一、対応しきれない場合は、入院先を紹介しましょう。Jさんは、先生があれこれと指示をしないのが嬉しかった。心配な痛みも先生はそれが専門であり、安心して任せられる。近所に住む、娘も協力してくれ、可愛い孫たちにも会える。Jさんは病院へのこだわりを捨て、残り少ない時間を削ることなく、家族に囲まれ、夫として、じぃじとして過ごすことを選んだ。

じぃじが帰ってきた

くりんとした小さな頭がふたつ、電池を手に持ち、大急ぎで部屋に戻ってくる。孫のH君6歳と4歳のA君だ。それを受け取り、杉山先生は処置を続ける。その手元を4つの瞳が追う。興味津々。じぃじが家に戻ったのも嬉しいが先生や看護師が来るのも嬉しい。待ち遠しくてしょうがない。これはなに?どうするの?今日は薬の量が違うなあ。(点滴の)落ちる速さがちがうよ。一生懸命に見ている。
二人ともじぃじが大好きだ。幼稚園が終わると兄弟はやってくる。一緒に出かけることはできないけど、ここにいるのはいつものじぃじ。ベッドのそばでいっしょに遊ぶ。時には叱られながら。ごはんのときもいっしょだ。Jさんの闘病は、ごく自然なかたちで生活の中にあり、その一部となっていた。
帰宅当初、Jさんは、散歩や好きな囲碁を打ちに出かけることもできた。緩和ケアもうまく進み、痛みはほとんどなかったようだ。とはいえ余命を告げられた身である。ひと月半を過ぎるころから状態は悪化していった。

ひとりで介護をしている気がしない

日に日に夫は弱っていく。それを目の当たりにして不安になるIさんを気遣い、親身に相談にのってくれたのが看護師だ。Iさんは、体温、血圧、便や嘔吐した量、色や臭いも報告した。看護師はそれにきちんと目を通し、病状の説明をしてくれた。Jさんができる限り楽でいられるように、最善の介護方法も一緒に考えてくれる。打てば響くように応えてくれる信頼できる看護師の存在はありがたい。大勢の患者を相手に、マニュアル通りに仕事をこなす大病院の看護師には望めないことだった。おかげで介護をひとりで抱え込むこともなく、とても心強かったとIさんはいう。
「じぃじ、いっこもようならんなあ」
心配そうにH君が言う。先生にもどうすることもできない大変なことが、じぃじの身に起きているのを感じていたのだろう。兄、弟とも、食事中にJさんが嘔吐しても、「臭い」「汚い」とは決して口にすることはなく、小さな手で背中をさすった。うがい薬を作るのは子ども達の仕事だ。この子達のために少しでも長く生きなくては、Jさんは最後の気力をふりしぼった。

よう頑張ったなあ

午前8時11分。腕に抱いた夫のからだが急に軽く感じた。何度か呼びかけ、先生に習っていた通りに人口呼吸もした。だが、夫はかえってこない。聴診器をあててみる。何ひとつ音は聴こえてこない。静寂の世界。これが“死”というものだと知った。Iさんに涙はない。
「よう頑張ったなあ」
Jさんはとても穏やかな顔をしていた。
その日、痰がつまり苦しそうな夫に吸引をしてやりながら、一晩寝ずに見守っていた。夜中に何度目かの吸引をしようとするのを制し、夫はIさんの手を強く握りしめた。涙がこぼれていた。だいじょうぶ、ずっとそばにいるよ。安心したのかJさんは少し眠る。明けがた、見たことのない寒天状の便がでた。Iさんは覚悟を決め、丁寧に夫のからだを拭いた。予定より早く帰省し、父のそばで寝ていた息子が呼吸の乱れを告げたのは午前8時ころ。急いで姉に電話をかけた。
着替えをさせるIさんに「今日は何日や?」ふいに夫がたずねる。「2月23日、土曜日」「土曜日か・・」
それが最後の会話となった。覚悟を決め、静かに迎えた最期だった。誰もあわてることはなかった。
H君はこの春1年生になった。杉山先生の弟子になったから、勉強も頑張る、と張り切っている。今でもじぃじの部屋に行き、学校でのできごとを話しかける。じぃじは、いつもボクたちの傍にいる。
命と向き合う体験、それがじぃじが最後に残した贈り物だった。