感謝の気持ちで迎える最期

感謝の気持ちで迎える最期

義母を看取るまでの半年間はEさんにとって、何十年分もの重みをもつ濃い時間だった。その半年間で嫁と姑ではなく、ほんとうの親子になれた気がした。
おばあちゃんはいつも、「ありがとう」と感謝をする人。しんどいなと思うときでもその一言で疲れも吹っ飛ぶ。
「おばあちゃんはへこたれてなかったし、最後までほんとによく頑張ってた。だから私もやりがいがあって。病院だったら、やっぱり病院任せにしていたと思うし。そりゃたいへんなこともあったけど、でもそれにかえられないものがありました」
見舞いに来た妹とお茶を飲んでいた、ほんのわずかな間におばあちゃんは逝った。ふたりが気づかないほど穏やかな死。
看護師はおばあちゃんの体をすみずみまでていねいに拭き、最後に薄く化粧をした。おばあちゃんは安らかで、とてもきれいな顔をしていた。家で葬儀もすませた。遺影は、写真館のウインドウに飾られたこともある、おばあちゃんお気に入りの写真。少し若いときの写真だけど、まあいいよね。

病院での異変

膀胱ガンによる貧血治療のためにTさんは2日間、入院をしたことがある。Eさんが見舞いに訪れると、そこには、すっかり精気をなくしてしまったTさんがいた。看護師から聞く入院中のTさんは、ふだんのTさんを知る家族には別人に思えた。皆が知るTさんはおしゃれで周囲の人にいつも感謝をする気配りの人。家にいるのが好きで、趣味の手芸のあいまに暇さえあれば片付けをする。主婦の鑑(かがみ)のような人だ。病院でTさんに何が起きたのか。

おばあちゃん、家に帰ろうか

Eさん家族は父(Eさんの義父)の具合が悪くなったのをきっかけに同居を始めた。10年前のことだ。父を看取り、2年前には夫が急逝。どちらも病室での別れだった。その後は息子と義母Tさんと三人で暮らしていた。
平成19年1月、Tさんは排尿時に不快感があり膀胱ガンが発覚した。しかし、特別な痛みもない。84歳のTさんは自分がガンであることを最後まで意識していなかったようだと、Eさんは言う。痛みをともなう抗がん剤治療はせずにこのまま様子をみましょう、そう話す医師に親族の誰も反対はしなかった。ちょうどその頃、Eさんは娘の出産が重なって、その手伝いに忙しいときだった。無事に初孫、Tさんにとってはひ孫が誕生。 明るいニュースに、Tさんの病気への不安は薄まっていたのかもしれない。その後もEさんはフルタイムの勤めを続け、昼間はTさんが家を守ってくれていた。
「しんどい」とTさんが不調を訴えたのはそれから半年後のこと。輸血が必要となり今回の入院となったのだ。
主治医は言った。Tさんは残念だがこの先、余命いくばくもない。できるなら家で看てあげるのがいいのではないか。在宅治療をサポートしてくれる先生もいる。
たった2日で人が変わるほど元気をなくしてしまった義母。Eさんは母がいつも言っていた言葉を思い出していた。
「病気になっても病院にはいれないでね」
嫁いで以来、ほんとうによくしてくれた義母である。「母を頼む」と夫は何度も繰り返していた。ほんとうに悪くなれば、病院に行けばいい。Eさんはそう気持ちを決めて言った。
「おばあちゃん、家に帰ろうか」
Tさんは満面に笑みを浮かべて喜んだ。
しかし一方で、Eさんは医師から渡された紹介先の名刺をみて戸惑っていた。そこには「在宅ホスピス」の文字がかかれていたのだ。

自分のペースを崩さずにいつもの暮らしを

思っていたより気楽なもんだなあ。
「ホスピス」という言葉に特別なことをしなければならないのではと、身構えたEさんだが、在宅ケアをはじめるとその気負いが少しずつとれていったという。杉山先生はおばあちゃんの治療を終えると、いつもEさんと話しをした。そこでEさんのぶつけた疑問や小さな不安を一つひとつ、解消してくれた。その場で聞けないことも「いつでも何かあったらすぐに電話して」の言葉を聞いて安心できた。長年続けてきた体操をやめずに続けるように薦めてくれたのも杉山先生だ。その間はヘルパーに来てもらえばいい。これはEさんにとっても、いい気晴らしになり、おばあちゃんにとっても孫のようなヘルパーと話しをする楽しい時間となった。
看護師は患者だけでなく、Eさんを気づかい、良き相談相手となってくれた。訪れるたびにEさんの話しを聞き、介護のコツや高齢者に必要な口腔ケアなどを教えてくれた。なかでも、足の鍛錬は、後の介護にとても役立ったという。最初は億劫がっていたTさんも「自分で歩けないとたいへんだからね」そう励まされ、ベッドに腰かけてゆっくりと足を上下させるリハビリを始めた。こうして、歩けるうちに足を鍛えておいたおかげで、歩行が困難になってからも、ひとりで少しでも立っていられ、寝たきりになった時にも腰をうかせることができた。些細なことのようだが、これは介護する側の負担を大いに軽減するのだ。
Eさんはこうした先生、看護師、ヘルパーの家族のような暖かいサポートのおかげで、大きなストレスをひとりで抱え込むことなく、自分のペースを崩さずにふつうの暮らしのなかで介護ができた。いや、介護をしているという感じさえしなかったそうだ。家に戻ったTさんの顔から病室で見えた暗い影は消え、いつものやさしいTさんに戻っていた。

会いたい人に会い、ともに食事を楽しむ

Tさんは広島県福山の出身。ある日、懐かしい顔が潮風の香りを運んで訪ねてきた。Tさんは久しぶりに会う甥、姪を歓迎した。その夜は食卓に瀬戸内海でとれたアサリを焼くいい匂いが漂った。Tさんは、まごこころのこもった故郷の味に涙した。もうひとつTさんが心待ちにしていたのは、可愛いひ孫の来訪だ。無邪気な笑顔に癒され、Tさんの杖で遊ぶひ孫に目を細めた。幸せな時間が流れた。
これまで勤めていたEさんは義母と日がな一日、向き合って過ごすのは初めての経験である。時間に余裕もあり、義母の好きな料理に腕をふるうと「今日もご馳走やね。料理がうまくなったね」と褒めてくれた。Eさんは気持ちが良く、やりがいがあった。もっとしてあげたいと心から思った。その通り、義母が行きたい場所、義父や夫が眠る墓を参り、喫茶店、歯医者さんへ仲良く出かけて行った。

最期はどうなるのですか?

正月を過ぎた頃からTさんは歩けなくなった。手をかせば立ち上がることはでき、家のなかでは車椅子を使った。適切な痛みのコントロールのおかげで強い痛みもない。少しずつ弱るTさんを看て、杉山先生は「桜の頃かなあ」とEさんに知らせた。人が亡くなるとはどういうことか、どんなふうになるのか、自分ひとりの時はどうしたらいいのか。次々と湧く疑問。杉山先生はそれに落ちついて答え、「誰もいないときに、ひとりで逝かれることもありますよ」と微笑んだ。
それを聞いてEさんは気持ちがわり切れた気がした。できるだけのことはしよう。でも、できることしかできない。何かあれば先生に電話をすればいいんだ。そのふた月後、おばあちゃんは管や装置を身につけることなく、娘ふたりが談笑する声を聞きながら、自宅の一室でそっと旅立って行った。これがほんとうの自然死というものだと、Eさんは知った。最期にそばにいることはできなかった。が、とても満足だった。