人として生きるということ

筋肉痛の正体は

脇腹が痛い。それがMさんの最初の自覚症状だった。2005年夏に受けた市の健診では血圧が少し高めということ以外、検査結果にも気になる点は見当たらなかった。かかりつけの病院でその痛みを伝えると「筋肉痛じゃないですか」と湿布をわたされた。

その冬のこと。クラッシク音楽が好きなMさんは友人と出かける音楽会を愉しみにしていた。しかし、原因不明の熱が出て、それを断念せざるおえなくなってしまった。相変わらず腹部の痛みはおさまらない。翌年3月、体調がすぐれずに受けたエコー検査の思いがけない結果に、Mさんは驚かされることになる。肝臓辺りの異変を医師から告げられたのだ。そして間をおかず、それが大腸を原発とした悪性腫瘍で肝臓への転移が進んでいることが判明。既に手術をすることはできない状態だった。その後、体調をみながら抗がん剤治療のため、入退院を繰り返す日々が続いた。しかし、ガンは進行し、2007年春、人一倍おしゃれに気を配っていたMさんだったが、肝臓が腫れてお腹がはり、スカートがはいらなくなってしまった。 v

質のいい生活をしたい

病院で有効な抗がん剤治療がなくなり、ホスピス病棟に入院するか在宅か、と医師に問われた時にMさんは「家で」と即答した。

Mさんは妹のNさんと二人暮らし。となれば、介護をするのは妹のNさんになるわけだが、その時、介護者として在宅ケアへの戸惑いはあったのだろうか。

「なかったですね。車を運転しないので私が少し離れたホスピスに通うのがまずたいへん。家だと私も用事をしながら看ることができる。それに、姉は寝たきりというわけではなかったし。ホスピスといっても、今日は気分がいいからちょっと外へでてみようかとか、自分の好きなように暮らすことはやっぱりできないでしょう。『質のいい生活』をしたいというのが在宅を選んだ一番の理由ですね」

こうしてごく自然にMさんの在宅ケアが始まった。そして、結果的にMさんが家で過ごしたのは5月から8月半ばまでの3ヵ月あまり。介護用ベッドを借りたのはつい7月になってからのことである。ダイニングキッチンにあるソファーが診察台となり、そうして診察を受けながらも普段どおりの暮らしが続き、用便も自分で済ませていた。本当に寝たきりの状態になったのは亡くなる前の4、5日だけだったという。

最初は週に4日間、終末期には毎日、横山先生と看護師が交替で訪問。痛み止めや栄養剤の点滴などがなされた。看護師による丁寧なマッサージのおかげで腹部に溜まった水分や便が排出されやすくなり、お腹のはりが軽減し楽になった。

ピンクのシャツ

いつものように横山先生の鳴らすベルの音が聞こえた。入って来た先生の様子が違う。いつもは黒っぽい落ち着いた色合いの服を着ていることが多いのだが、今日は明るいピンク色のシャツである。

「あら。そのベストとシャツ、よくお似合いですね」

闘病中でも身奇麗にしていた M さんが目を細め横山先生に言った。先生は、看護師に「暗い色ばかり着てたら、患者さんの気持ちも暗くなるでしょ」と忠告された、と笑った。

「お医者さんというのは、医師としての威厳を保とうとする方が多いように思いますが、横山先生は患者本位に考えてくださるやさしい人でした。(私たちが)間違ったことを言ってもそれを否定せずに話しをよく聞いて下さった。どんな質問にも答えてくださるし。どう処置していいか分からなくて夜中に電話した時もちゃんと相談にのってくれて。いつでも連絡がとれるので、とても安心できました」とNさんは話す。  

現実を受け止めて

ある日のこと。いつものようにスピーカーから流れ出るメロディに聞き入っていたMさんは、自分の耳を疑った。音程がとれない。抗がん剤の副作用で耳が遠くなっていたのには気がついていた。しかし、あれほど好きだったクラシック音楽が今は雑音にしか聴こえなくなってしまった。ショックだった。それ以後、Mさんは楽しみにしていたテレビの音楽番組にもチャンネルを合わすことはなかった。

それでも、Mさんはいつまでも嘆き悲しんでばかりではなかった。気分が落ち着いている時には、今できること、たとえば、新聞や本を読むこと、あるいはクロスワードパズルや数独をといてみること。現実を潔く受けとめて、できることに力を注いで楽しみを見つけて生きていく。 M さんはそんなしなやかで強いこころの持ち主だったようだ。

M さんの容態が少しずつ悪化してきた7月のこと。横山先生は送り出された玄関先で「残念ですが、肝臓がボロボロで、いつどうなってもおかしくない状態です。どうぞ気をつけて見守ってあげて下さい」と耳打ちした。そんなふうに姉の病状や変化を正確に知らされることは、Nさんが間近にせまりつつある姉の死に覚悟をきめ、気持ちの整理をつける助けとなったという。

人として生きるということ

「先生、からだがだるくて・・。何とか楽にしていただけませんか」

8月にはいり、さらに肝機能が低下し、下痢や嘔吐を繰り返し食事もとれなくなると、目に見えて M さんの体力は落ちていった。いつも前向きに生きてきた M さんだが、このところは、あまりにだるくて辛い。そして、ついそんな言葉が M さんの口からもれたのだ。

昼夜逆転をした姉の介護をするため、Nさんも夜中に何度も起きる毎日が続いていた。

横山先生は少し間をおき、答えた。

「それはご家族の同意がなければできません」。

生きてはいるが意識もない、そのままいつと知れずに別れを迎えるなんて嫌だ。Nさんはそう反対した。介護は楽になるかもしれないが、話しをし、笑い、痛みやだるさであろうと、それを感じてこそ人ではないか。Nさんは姉のからだをさすりながら説得した。その思いを聞き、 M さんもこくりと頷いた。

とはいえ、介護をするNさんまでが倒れては元も子もなくなる。体力の限界を考えて、夜間(夜8時から翌朝8時まで)サポートするヘルパーを依頼することに決めた。その一週間後、 M さん(享年 77 )は眠るようにこの世を去っていった。

「(姉の場合)在宅で急な病状の変化がなかったのも幸いでした。まだやりたいことはあったでしょう。でも、命の終わりを感じた頃に姉は、ガンになったことは嫌だけど、結構いい人生やったわ、と話していました。こんなふうに姉が家で過ごせたのは、ひばり往診クリニックから往診に来て下さった横山先生や看護師さんのおかげだと思います」

住み慣れた我が家で、最後まで自分らしく過ごす。それは、Mさんが望んだ人生の終止符の打ち方であり、悔いの残らない生き方だったのだろう。