余命半年から3年。父と選んだ道

余命半年から3年。父と選んだ道

愛らしい笑顔がちょこまかと居間をかけ回る。Nさんにお会いした日は、偶然、彼の娘が2歳になる日と重なった。居間に設えたクリスチャンの祭壇には、血色のいい紳士が孫娘の成長を見守るように笑っている。Nさんの父Kさんが天に召されてからひと月半。医師に余命半年、と命の期限をいいわたされた日から3年の時が過ぎていた。

肺ガン末期の宣告と戸惑い

「播種(はしゅ=ガンの種)が思ったよりもあったことは、父に話してくださって結構です。しかし、播種が胸膜まで浸潤していたこと、余命のことは、どうぞ伝えないでください」 2003年冬。会社の定期健診で撮ったX線写真で右肺に気になる影があり、翌年別の病院で精密検査を行なった結果、右肺にある影がガンであることが判明。手術は2004年の3月に行なわれた。誰もがそれを肺ガン初期だと疑わずにいた。術後、Nさんは母、叔母(Kさんの妹)と共に診察室に呼ばれた。そこで開胸手術をした医師は、CTスキャンに映っていた原発部の腫瘍3センチ程を切除するだけで、あとはそのまま縫合するほか術がなかったことを伝えた。 「余命3ヵ月、長くてあと半年と覚悟をして下さい」余命…医師の口からでたその言葉に、にわかには納得がいかず、そのことを父にどう伝えればいいのかと思案にくれた。

Nさんは20歳代に抗がん剤治療を受けた経験があり、それは、とても辛い治療で苦い思い出であった。自分の経験から考えて、強い薬を使い腫瘍を叩けば、それ自体は確かに抑えられる。しかし、その見返りも大きくQOL(生活の質)が損なわれてしまうという、本末転倒な事態がおこってしまうのだ。Nさんは父と話し合った。「人は必ず死ぬ。だけど、それまでのプロセスを大事にしよう。医師が言ったから、おまえがそう言ったから、と人のせいにするのではなく、お父さんと私で話し合い、納得できる選択をしていこう」。 無口で勤勉に働く父。小学生の頃にソフトボールをして遊んでもらった記憶があるくらいで、家族旅行に出かけたこともほとんどない。Nさんが、そんな父とひざを交えて話しをするのは、初めてのことだった。

聞きたいことが聞けない。
診察時間5分の不安

Kさんが手術・治療を受けたのは、大阪にある、全国でも有数のガン治療に特化した病院である。通院には、ほぼ半日がかかる。大病院の宿命で、患者ひとりの診察時間は、どうしても5分程度に限られてしまう。医師に聞きたいことはたくさんあるが、それを充分に聞ける余裕はなく、簡単な診察と次の検査の日程を決める事務的な内容で終わることもしばしばだった。 ある時、医師からKさんのホスピス病棟への移行を薦められたことがあった。一旦、ホスピス病棟に入院すると、積極的治療にはもどれない。それは、ガンと対峙しようとする意志がある父から希望を奪い、治癒の見込みのない患者として、残された時間を穏やかに過ごす道を示されているようにNさんには思えた。話しを聞いて落ち込むであろう父の姿が浮かんだ。Nさんは首を横に振った。 自分達で治療法を選んでいくという意志に後悔はないが、病院の診察システム上、担当医師と深く話しをすることができない状況では、やはり不安がある。オーディオやコンピュータの品質管理を専門とする技術者として長年を過ごした父は、自身の受けた治療に関するデータや数値に敏感で、腫瘍マーカーで常に自分の様態を知っておきたい人であった。その気持ちをくんで近所の診療所で腫瘍マーカーの検査をしてみるが、結果がでるだけで、その数値をどう解釈して良いのか、肝心のところがその医師からは得ることができなかった。父、家族ともに焦りと不安が募っていった。

患者と家族の悩みに寄り添う医療

手術を受けて一ヵ月後、インターネットで調べるうちに、Nさんは自宅から近い場所で末期ガン患者を対称に「在宅ホスピス」を専門としているクリニックがあることを知った。 現在の状況を伝え相談したい旨を書きメールを送ると、すぐに杉山先生から電話がはいった。 ただガンを押さえ込むのではなく、あくまで本人のQOLを優先したく、けれどもできる限りの治療はしたい。病気に対する不安や悩みの相談にのってほしい。治療法について、専門家としての知識と経験からアドバイスをもらいたい等々を伝えると、電話から杉山先生の温かく力強い言葉が返ってきた。 「おっしゃる通り。治療をして患者さんが辛くなるのでは意味がない。今は、病院での治療と平行してできる限りのご相談にのります。お父様の状態がよくなれば、抗がん剤治療にも戻れるでしょう。もし、通院がしんどくなれば、在宅で治療もできます。一緒に頑張りましょう」。 Nさんは、自分達の気持ちを理解し、共に歩いてくれる人ができた心強さに、ほっと安堵のため息をついた。

「セカンドオピニオン」を聞ける
心強いホームドクター

「在宅ホスピス」という言葉から「あきらめ」といったニュアンスを感じる人は少なくない。そこで、Nさんは当初、杉山先生を「セカンドオピニオン」を聞けるホームドクターとして家族に紹介した。以後、病院での温熱療法、抗がん剤治療での薬剤の選択など、納得がいくまで説明を聞き、その都度、父と二人で方針を決めていった。時には入院先のKさんの個室にひかれた電話で杉山先生とKさんが直に話し合うこともあったという。それが、どれほどKさんを勇気づけたかは、想像に難くない。杉山先生とKさん家族との信頼関係は確実に深まり、通院が厳しくなった頃に在宅へと移行していった。

家族、親族に支えられ、
「普通」に暮らす日々の幸福 

リビングに置いても似合う木製のベッド。それは、家族が普通に暮らす生活に違和感なく溶け込むように、とNさんが選んだもの。在宅での治療は、主に採血、検査、カウンセリング。杉山先生は、Kさんが望めば、あまりにも高価でいかがわしいものを除き、アガリクスなどの免疫療法も否定はしなかった。また、先生に紹介されたガン治癒で有名な秋田県玉川温泉への訪問は、何年ぶりかの家族旅行にもなった。同地の(ラジウムが出る)北投石の岩盤浴に、レンタルした放射線測定装置を持って出かけたというのもKさんらしい話である。 しかし、抗がん剤が効かず骨転移も進む状況となり、2006年の春に「イレッサ」を試すことになる。これは、ケースによっては、肺ガンに効果の高い治療薬だが、喫煙経験の長い人にとっては命と引き換えともなる重篤な副作用がある。Kさんには、Nさんが生まれる三十数年前に喫煙経験があった。そのためKさんは、イレッサを試すことを最後まで躊躇していた。しかし、選択肢が狭まるこの時点では、それを試す意味はある。容態急変の場合は、サポートをしてくれる提携病院があるから、と杉山先生に薦められ、服用を決心した。結果、心配した危機もなく、それはKさんに効いた。マーカーの数値が下がり、肺の影がなくなるという幸運にも恵まれ、しばらくは穏やかな時が流れた。 在宅での日々を振り返ると、家にいるのが好きな人だったというKさんにとっては、めんどうな食事や入浴の制限もない家での暮らしは快適なものだったのだろう。居間とキッチンの三方に大きく窓が開かれ、愛犬の様子や季節の移ろいを告げる木々の緑も見える。朝と夜には自宅のお風呂にゆっくりつかり、気分がいい日には、パソコンに向かい株式をチェックするのが楽しみで、一人で近所を散歩することもあった。Kさん夫妻のそうしたごく普通の生活は、ご夫妻の4人の子ども達とその伴侶、Kさんの兄弟姉妹といった家族が献身的に看病し、互いを思いやる、温かい絆があってこそ実現したことだった。そして、何よりの喜び、生きる力となったのは、2005年5月に長男であるNさんに女の子、次いで、次女夫婦には2006年10月に男の子が生まれたことだ。亡くなる数ヵ月前に孫たちと映った写真では、とても病を患う人とは思えない、幸せに満ちたKさんと家族の笑顔がある。しかし、2006年暮れ、免疫力低下による帯状疱疹が発症し、イレッサの服用を中断したKさんの容態が少しずつ悪化。正月を過ぎる頃に、Kさんに悟られないように、先生は妻Aさんにだけ「桜が咲く頃まではムリかもしれない」とそっと耳打ちをしていた。

「みんないるからね」

最期を迎えるまでの過程は、杉山先生や看護師らによる適切な痛みのケア、家族と過ごす安心感もあり、Kさんは苦痛にもがき苦しむこともなかったという。痛み止めのモルヒネも結局一度も使うことはなかった。また、夫婦共倒れともなりかねない夜間のトイレへの介助が続くと、先生は睡眠薬を調整し、それを解決するなど、家族が日常生活を平穏に過ごすためのありとあらゆる手立てをつくしてくれた。そして、訪れる先生、看護師、ヘルパーがKさんや家族の気持ちを察して、かける何気ない会話に励まされ、こころが和らいだ。 最後のひと月間は、心細さが増す妻Yさんを慮り、Kさんの妹、近所に住むYさんの兄嫁達が交代で泊まりこみ支え続けた。

2007年4月4日。その朝は清々しく、いつもKさんが机に向かった書斎の窓から、明るい春の日差しが射していた。キッチンの窓からは、瑞々しいみどりを背景に、今が盛りと咲き誇る桜が見える。数日前に、残された家族の時間を先生から伝えられ、各地に住む家族がKさんのもとに集まっていた。最後に昨日まで、Kさんの看病に付き添い、一旦自宅に戻っていたKさんの妹が駆けつけた。 「Kちゃん来たよ」 その到着を待っていたかのように、眠るようにいたKさんの息がしだいに浅くなる。妻Yさんとその兄がKさんの手を握りながら賛美歌「また会う日まで」を歌い、皆が静かにKさんのベッドを囲み、たたずむ。 「みんないるからね」 呼びかけが聞こえたのだろうか。Kさんはうっすらと目をあけ、その後それが自分の意思であるかのように目を閉じ、静かにその呼吸を止めた。ベッドサイドには合計10名が集まり、Kさんを見送ることができた。 一気に話し終えたNさん。つや消しの金縁メガネの奥からまっすぐに見据えるように見つめていた目がようやく和らいだ。その手には3冊の日記帳がある。細かな字でびっしりと書かれたKさんの闘病の記録が記されている。