明日に向かって

明日に向かって

小さな祭壇が置かれた部屋に軽快なメロディーが流れだした。Kさんはリズムをとりながら黙って聞き入っている。

『命果てるまで 灯火が消えるまで
強く もっと強く魂を焦がしたい
命果てるまで この心が枯れるまで
強く もっと強く君を抱きしめたい
魂を焦がしたい
命果てるまで』

妻Yさんが大好きだった「ゆず」の「命果てるまで」。この部屋で何度も繰り返しかけられ、口ずさんだ曲のひとつである。 平成19年8月、Yさんは家族が見守る中、旅立って行った。享年41。最後まで希望をすてず、絶望することなく、一日一日を懸命に生きた人である。 車椅子のYさんが楽しそうに笑っている。両脇に夫Kさんとひとり息子のT君の少しはにかんだ笑顔がみえる。ふた月ほど前に出かけたお伊勢参りで撮った家族写真。その横に、秋に開かれるコンサートチケットが2枚、クリップにはさみ置かれていた。

4年目の異変

平成14年夏。Yさん36歳の時に乳がんが発覚。幸いに初期ということで乳房温存手術が行なわれた。転移もなく予後も順調で抗がん剤、放射線治療も終え、いつもの明るく元気なYさんが戻ってきた。その後定期的に受けた乳がん検診でも問題はなく「完治」した、と誰もそれを疑うことはなかった。病気のことはすっかり忘れ、家族3人で暮らす平穏な3年間が過ぎた。 そんな平成18年春。Yさんは風邪が長引き、気だるさが続いた。足元がふらつき、バス停に向かう階段のちょっとした段差に躓き転んでしまった。「平均台とか苦手やったし、平衡感覚よくないからそのせいかなあ」Yさんは持ち前の明るさで気にかけることもなかった。しかし、いつまでもふらつきはおさまらず、定期検診を早めて以前手術を担当した医師に相談することに。そして、Yさん夫妻は青天の霹靂ともいえる結果を知らされることになった。

重複がんの発覚と治療の日々

検査の結果、ふらつきは脳への転移が原因と判明した。まずは脳の治療を急がねばならない。担当医師からの紹介は、羽曳野市にある、脳神経外科では定評のある病院だった。事態の深刻さから、緊急入院して脳腫瘍にピンポイント的に照射するガンマナイフ治療がなされた。しかし、既に一度でとりきれないほどの数の腫瘍がYさんを蝕んでいた。しかも、乳がんからいきなり脳への転移は考え難く肺がんが疑われた。そこで、医師の後輩にあたる専門医が紹介された。生駒市内のその病院での検査により原発性の肺がんが確定。5月末のことだった。現状では抗がん剤治療しか方法はなく、通院しながらTS1カプセル(抗がん剤)の服用とカルボプラチンの点滴を行なうことになった。 思いがけないがん再発に気落ちしたYさんを元気付けたのは音楽だった。Yさん夫妻は、ひとり息子のT君が中学に入り子育てに少し余裕ができた頃から、コンサートへ行くのが楽しみとなっていた。チューリップ、松山千春、浜田省吾、中でも好きなのがゆず。二人は抗がん剤治療開始までのわずかな間を縫って、コンサートに出かけた。Yさんは、ひと時、ふらつきや病気も忘れ、夫がたしなめても周囲の若いファンと一緒に立ち上がって歌い、声援を送った。そんな妻の病状を気づかいながらも、久しぶり見る満足そうな笑顔にKさんの気持ちも和んだ。

皆と会えないと淋しいし、家に帰りたい

9月に入り、副作用による貧血がひどく、その効果も頭打ちとなり、いったん抗がん剤治療を中止することにしたYさんは、気分のいい時を選んで家族で白浜に出かけた。湯めぐりも楽しみ、好物の新鮮な海の幸も堪能した。このまま何とかこの感じでいけたら・・。 「多臓器転移。ステージ4という厳しい状況であるのは理解していたし、病気の勉強をしているとその場合の平均寿命もわかっていました。それでも、私は敢えて先生に余命を聞いたことがありません。だって命のことはわかりませんからね。可能性もゼロではないし。あきらめんとこって思っていました」とKさんは言う。 しかし、秋の深まりとともに容態は悪化し、しだいにYさんは横になる日が増えていった。抗がん剤の副作用でひどい貧血に悩まされ、翌年1月には黄疸で入院。肝臓転移による胆管圧迫治療のためステントを注入。いったん持ち直して再び新たな抗がん剤で治療を始めるが、3月には骨転移による大腿骨骨折で再び入院を余儀なくされた。その度にYさんは「病院は嫌や、しんどくても家に帰りたい」と訴えた。痛み止めによる眠気のために昼夜逆転をおこしたYさんにとって、病室で一人迎える夜の孤独は辛いものだった。しかし、それにもましてわずかな時間もT君のそばにいてやりたいという母としての切な思いが強かったのではないだろうか。 そんなある日のこと。 「現段階で、奥様の全身状態はおもわしくありません。残念ながら、これ以上の積極的治療は逆に奥様の命を縮める可能性が有ります」 ホスピス病棟への入院を医師に薦められたKさんは、それでも何とか治療を続けて欲しいと議論を交わした。その熱心な思いが通じたのだろうか。あるいは以前に行われた抗がん剤が効いたのか、Yさんの血液状態は改善し、一旦はあきらめかけた抗がん剤の投与を三度することもできた。この時の抗がん剤治療の効果は、後の二度の家族旅行への助けとなったのではないか、とKさんは振り返る。 3月末、医師と相談の結果、自宅での治療を望むYさんの思いを尊重し、選んだのが在宅ホスピスだった。

親しみやすさとプロの目と

ひばりメディカルクリニックから来た先生はジーンズ姿の気さくな人だった。お決まりの白衣も着ていない。女医さんでよかった。初めて吉川先生に会った時、Kさんはそう思った。薬の副作用で抜けてしまった髪を妻は気にしていたからだ。明るく話し好きのYさんは、翌日訪ねてきた看護師ともすぐに打ち解けたようすだった。そしてドクター、看護師ともに友人のような親しみやすさを持ちながらも緩和ケアのプロとしての目利きも確かなものだった。輸血や大まかな薬の処方は病院で、一方、ひばり往診クリニックのスタッフは日ごとに状態が変わる患者の様子を把握し、小さなサインも見逃さずにきめ細かで的確な処置をおこなった。こうした病院とのスムーズな連携は、日中、娘Yさんに付き添っていた母にも、仕事に出かけ留守をあずけるKさんにとっても大きな安心感に繋がったという。
家族が集まるリビングでYさんは横になり、好きな音楽を聴き、気分がよければお弁当作りを手伝い、夜は家族三人で川の字になって寝た。一粒種のT君の顔を見ること、家族と過ごす何気ない日常が何よりの薬となっていたことは言うまでもないことだろう。 こんなことがあった。Yさんは服用中のステロイド薬で舌があれ、味覚がなくなり何を食べても、まさに味気のないものになってしまった。看護師は、がっかりするYさんを励まし、何度も丁寧に舌の手入れをし、少しでも美味しく食べられるように手をつくした。そのかいがあってメロンの甘みが少しわかるようになった。二人は顔見合わせ喜んだ。    

命果てるまで

崖っぷちに立たされた時、どれだけの人が笑顔を忘れずにいられるのだろう。からだ中をがん細胞に侵され、健康な人間の4分の1しかない血液で生きていると聞けば、それがどれほど辛いことかは想像に難くない。しかし、その事実を達観しているようにも見える大らかさがYさんにはあった。薬をのみ、リハビリに励み、生きるための努力を投げ出すことはなかった。 「それも先生や訪問看護師さんのケアがあってこそです。痛みの緩和ケア、副作用への対策、と常に妻が少しでも楽に過ごせるように日々考えて下さって。その支えがあったから、私たちは安心して、コンサートや旅行を楽しむことができたんです」とKさん。 家族や医療者が親身になってケアをし、患者もそれに応えるように懸命に生きようとする。であれば、医療は一方的に患者を助けるだけではなく、患者本人や家族とともに支えあってこそ成り立つものとも思えてくる。 「ほんとに妻は偉かったと思います。毎日付き添いに通う母親や私に負担をかけまいと気づかって。わたしはあきらめの悪い男で・・・。だけど家で皆といたい、という妻の思いだけは叶えてやれたと思います」。
在宅で4ヶ月半あまりを過ごしたYさんは8月のある朝、部活動で学校へ向かおうとするT君を呼び止めるように静かに息をひきとった。夫KさんとT君がその名前を呼び続けると、最期にYさんは起き上がろうとし、口元がかすかに動き、何かを言おうとしていたように見えたそうだ。それは家族への感謝の気持ちだったのか、T君への母親としてのメッセージだったのか。命つきるまで明日に向かい『生きる』ことを全うしたYさんに遺言はない。 決してあきらめず希望を持っていよう。奇跡だって起こるかもしれない。寝たきりで24時間点滴を離せなくなっても「コンサートへ行くんやろ。少しでも食べな」と、時に落ち込むYさんをKさんは励まし続けた。果たしてそれがよかったのか、死を間近に感じた妻に最期の言葉として聞いておいた方がよかったのか。その答えはわからない。ただ、Kさんの表情に曇りはみえない。 「妻と息子三人分のチケットをとってあるので、今夜は息子とコンサートに行ってきます」 そう言葉を繋いだ。