笑顔がつむいだ絆

笑顔がつむいだ絆

「おかあさん!何かおかしい」

まだぬくもりのある寝巻きを洗濯機に入れ、慌てて部屋に戻る。つい、今しがた、娘や孫たちも手伝い、夫の体を丁寧に拭き、新しい寝巻きに着替えをすませたばかりである。いったい何がおこったのか。見る間に夫の顔色は生気を失い、蝋人形のように変わっていく。‐どうしたの、おとうさん?そんな、私だけ間に合わないじゃないの‐

腑に落ちない不思議な感覚だけが頭を何度も駆け巡る。冷たくなった夫の手をとり、皆でその名を呼び続けた。

人の顔には、人生が表れる。誰をも包みこむような穏やかな笑顔。位牌に刻まれた戒名は「釋慈孝」とある。

「うまいことつけてくれはったわぁ。皆にやさしい人やったから」。

弔問客から贈られた生花が甘く香り、病んだ夫の目を和ませた妻Aさん手製の刺繍の花たちさえも、みずみずしく匂うようだ。Kさんは、金婚式まであと2年を残して、花びらが静かに散るように逝った。

高度成長期時代を支える担い手として、精力的に仕事をこなしてきたKさんが第一線を譲ったのは 70 歳の時のことだった。その時を心待ちにしていたAさんは、早速、市が開催する寿大学に夫婦で申し込んだ。講演会やハイキング、夫婦で過ごす時間は、新鮮で充実したものだった。買い物や旅行、パソコン教室へも、いつも二人で出かけた。Aさんが友人と遊びに行くときもKさんは、少しおどけて「送り迎えさせていただきます」、と自ら申し出て、それも楽しんでいるふうだった。そんな平穏の生活に翳りが指したのは、4年の過程を修了し、寿大学を卒業する頃のことだった。

卒業の前年 11 月にKさんの貧血がわかり、念のために胃の検査もするが異常なし。かかりつけ医のもとで貧血治療をすすめていたが、次に検診を受けた際には、検査数値が全般に思わしくない。大学病院で再度検査をすると大腸がん、肝臓への転移が発覚。Kさんには、だるさがある程度で特別な症状もなく、医師に告げられた病名は夫妻を驚かせた。しかも、事態は一刻の猶予もないとのこと。すぐに手術が行なわれた。幸い予後は、良好で、体重が減りはしたものの散歩やゴルフもできる程に回復をした。その後、通院治療と抗がん剤の点滴を受けるための入院を繰り返すことに。しかし、安定したかに思えた様態も改善は見られない。待ち時間の長い通院治療がしだいに負担となり、担当医にひばりメディカルクリニックを紹介され、平成 19 年2月に在宅ケアを始めた。

在宅で病院と同等、あるいはそれ以上の専門的ケアを受けられることなど知らなかったAさんは、在宅ケアをすすめられた時には、もう治療法がないのか、と密かに肩を落とした。しかし、夫には落胆した様子もなく、見方を変えれば、夫にとっては通院の負担や、誰気兼ねなく、気ままに時間を過ごせる自宅のよさがあると気を取り直した。

「ひばりの皆さんには、ほんとによくしてもらいました。病院にいても、何かが起こってもすぐに担当医が駆けつけることは難しい。それを思えば、専門の先生が一対一で診てくれ、何か不安があれば、いつでも電話で相談できるのがとても心強かったですね」

ただ、Aさんには心配ごとが一つあった。痛みの治療に使われるモルヒネがそれである。大学病院では、医師に「だいじょうぶ。痛みを我慢して誰が得をしますか。考え方を少し変えてみて下さい」と言われていた。これは、痛みの治療は、患者のQOL(生活の質)を高めるためだけでなく、痛みを止めなければ、病気そのものと闘うエネルギーが出にくくなることを踏まえてのことかもしれない。当の本人も「先生が良いと言われるならええやろ」とさして気にする風もない。が、麻薬の一種と聞けば、中毒になり、夫の精神がおかしくなってしまうのではないかと不安が募った。

「がん」といえば、痛みで患者はもがき苦しむ壮絶な病気と聞く。しかし、Kさんは痛みでのたうちまわることや嘔吐で悩まされることもなく、在宅での闘病生活は、実に穏やかなものだった。

「時どき、きゅーっと痛いとか、耳がツーンとした感じがすると言ってましたが、痛みはほとんど薬で治まっていたみたいです」。

心配したモルヒネの副作用による精神の乱れもほとんどみられなかった。ただ一度だけ、こんなことがあった。突然Kさんは家族をひとところに集め、出抜けに「警察がやって来るから充分に気をつけるように」と演説を始めたのだった。けれども、それを目の当たりにしても皆は慌てることもなかった。「ふーん。わかった気をつけるね」とニコニコして、それでいて真剣にKさんの演説を聞いていたという。体調や痛みは、場の雰囲気や気の持ちようで随分とかわるものだ。Kさんは、調子が良ければ、家族が楽しそうに食卓を囲むようすを覗きに来たり、趣味のパソコンに向かうこともあった。家にいる安心感、病室で人に気を使うこともなく、きままに過ごす時間、家族と交わす何気ない会話、できる限りフツウの暮らしに近い生活をすることが、Kさんの痛みや辛さを軽減していたのかもしれない。

「ほんとに不機嫌な顔をしない人で、しんどいようなことは言わないし。辛いのを見せないようにしてただけかもしれないけど、やっぱり、ほんとに辛ければポロリッと本音がでそうなもんやけど、そんなこともなくて。いろんな人のものすごい闘病生活を聞くと、これで良かったんかなと思いますね」

その舞台裏では、緩和ケアの専門医による適切な痛みのコントロールと看護師らの家族への精神的な支えが力となっていたのだろう。

家族にとっても在宅での看取りはかけがえのない時間となった。Kさんの孫娘の一人は、専門学校を卒業してこの春から介護福祉士として仕事に就くことになっていた。Kさんが自宅で過ごしたのは2月から3月終わりまで。それは、ちょうど孫娘が卒業から就職するまでの間と重なる。その間、彼女は人が老い、少しずつ弱り、家族が力を合わせて、大切な人を見送るという貴重な体験を得たことになる。これは彼女のこれからに大きな意味をもつに違いない。人は死期を自ら決めることはできないが、偶然というには、あまりにも絶妙のタイミングである。いつも人のことを思い、人に幸せを運んだKさんらしい最期の生き様に思える。

「いろんな旦那さんがいるけど、主人は一度も声を荒げることもなくて、やさしい人でした。何だかいいことばっかり思い出しますね。この頃は、遊びに行くとお迎えがいなくて自分で帰ってこなくちゃいけないの。ちょっと不便になっちゃったわね」

Aさんはかすかに微笑み、緑の鮮やかさを増す庭を見やりながら、目尻に光るものを、そっと、中指でぬぐった。