‘誇り’を全うする人生

‘誇り’を全うする人生

「手、離しよったなあ・・・」
父のその言葉に、つい今しがた、診察室で交わした医師との会話が思い起こされてくる。在宅ケアを薦められたのだ。ここ最近では、通院しても抗がん剤を投与されることはなく、痛みを抑える薬のみが処方されるようになったが、その効き目が強すぎるのか、日中もまどろんだように過ごす時間が長くなった父だった。体力もがくんと落ちた気がする。残された時間をできるだけ充実のうちに過ごしてほしい、と願う娘のAさんは、早くから在宅ケアを考え、杉山先生にも相談をしていた。しかし、在宅ケアへのスムーズな移行は、主治医からの紹介が最適な方法だ。その日、ようやく願いがかない、Aさんはホッと胸をなでおろした。これまで何度か、主治医に在宅での治療を希望しても「まだまだ、早いでしょ」と取り合ってもらえずに歯がゆい思いをしたが、それは、打つ手立てがなく見放された、と父が思い違いをすることを考えてのことだったのかもしれない。帰宅途中の車で、肩を落とす父の姿を見ると複雑な思いがめぐった。

奥歯の奥にあいた大きな穴。まさか、こんなことになっていたとは・・・。父に付き添ったAさんは目を見張った。歯茎からの出血を家族には言わずにいた父が、ある日、貧血でふらりと倒れ、発覚したのは、日本では珍しい、頬粘膜ガンだった。見つけやすい部位ではあるものの、自覚症状に乏しく、発見が遅れることが多い。同時に胆のうにも異変が見つかり、ガン転移の恐れから、先に開腹手術がなされた。幸い、転移はなく、胆管結石との診断だった。続いて口腔内の手術となり、半年に渡る入院生活が始まったのは、秋風が吹き始める頃のことだった。
以前、心臓手術を受けた時には大病ながら、わずかひと月で退院できたことを思うと、術後の快復は思わしくない。しだいに苛立ちがつのる。暗く長い冬の夜を病室で過ごす孤独。話し好きのOさんは、退屈な毎日に辟易してしまっていた。 「同じ病室の方の奥さんが一日つきっきりなのが羨ましかったんでしょうね。毎日、かならず誰か来るようにって。うちは家業の都合で、家を留守にするわけにもいかないし、人手もいるのでね。そしたら、そのうちにカレンダーに何時何分に誰が来た、とかメモしだして」と、Aさんは生真面目な性格の父を思い出して笑った。そして桜散る頃、ようやく待ちわびた退院となった。

術後の抗ガン剤治療を始めて一年が過ぎようとしていた。
「何でこんなに良うならんのやろ?毎週行って注射もしてんのに・・・」。
頬のしこりを触りながら、Oさんは首をかしげた。入院は懲り懲りだが、病院へ行けばよくしてもらえる、と漠然と信じていた。しかし、病状は少しずつ悪化していたのだ。自力での車通院は危ないからと、いくら家族が止めても「保護者の世話にはなりたくない」そう怒ったようにスタスタと駐車場に向かう頑固でしっかり者の父の、その事実を疑わずにいることがAさんには不思議に思えた。
口腔外科と内科をかけもちの治療を続ける日々が過ぎ、体力は目に見えて衰えていった。そんなOさんを原因不明の背中の痛みが襲う。 痛み止めの処方もなく、整形外科の受診を薦められるが問題はそこにはないことが後日判明する。痛みは少しもよくならない。遅々とした対応にOさんの苛立ちが募った。ペインコントロールのスペシャリストである杉山先生なら、楽にしてくれるだろうに・・・。Aさんの思いは揺れる。
ついに通院時に、待合室でも横になるようになったOさんを見かねて、主治医が在宅ケアを紹介したのは、夏の始まる頃だった。

往診初日のこと。「よろしくお願いします」頭を下げ、手を合わせるOさん。自己紹介代わりに暗記している病歴を淀みなく話し、最後に「延命治療はいりません」、と付け加えた。
「わかりました。余計なことはしないね。痛くないように考えていくわな」。

その後、毎日、杉山先生は往診に通い、痛みのケアをするため試行錯誤を繰り返した。一週間後、Oさんにぴたりと合ったケアに成功。痛みがウソのように軽減されると、日中は、家族、来客と話しをしたり、時には家業の様子を見に行ったり、と気ままに時を過ごし、夜は安らかな眠りに着いた。薬で痛みは抑えられるものの、ただ眠ってしまうだけの日々とは比べ物にならない充足した時間が戻ってきたのだ。
「お風呂も一人ではいって。洗うの手伝おかって声かけても、いらん、自分でできる間は自分でやる。余計なことはするなって。誇り高い人でした」と、Aさん。
家族に甘えを見せないOさんが心を許し、素直に手助けを受けたのは、クリニックの看護師だった。身体を拭き、慢性的な便秘も解決した。その献身的な姿には頭の下がる思いだったとAさんは述懐する。

これまでに危機的状況を二度、Oさんは乗り越えてきた。一度目は、心臓手術。そして二度目は家で夕食を終え団欒を楽しんでいた時である。頬の傷口から出血がとまらなくなったのだ。急場しのぎにあてられたタオルは見る見るうちに鮮血に染められていった。家族に緊張が走る。その日の往診は終わって、夜は更けている。一瞬、電話をすることに躊躇うが、一刻を争う事態に意を決して杉山先生に連絡をとると、先生はすぐに駆けつけ、処置を済ませてくれた。が、輸血はできない、止血できるかどうかは五分五分である。
「影が薄くないから、きっと大丈夫でしょう」
先生の言葉通り、Oさんはその夜、一命をとりとめた。
「夜中に来てくれて、ほんとにありがたかったなあ。困ったら何時でも電話していいよ、って言われてたけど、ほんまに来てくれはるんやって安心しましたね」とAさんは語る。
慢性期の患者と違い、ガン患者は容態が急変することが多い。家族が恐れるのは、そうした場面である。患者本人への処置は言うまでもないが、家族のこうした不安をケアするためにクリニックでは24時間体制で対応している。杉山先生は、遠慮の一線を越えて電話をしてくる家族の心情を察し、夜中でもできる限り出向く。顔を見て安心してもらうことが、医師としての自分にとっても喜び、という。

その日の朝、父の鳴らすコールが響いた。トイレの前で倒れ、ぐったりとした父を3人がかりでベッドに運んだ。「尿瓶を買ってきてくれ」。父が書いたメモを手に取り、さあ、これからだ、Aさんは本格的な父の介護の始まりに覚悟を決めた。何かと忙しい家業、夕方までにそれを買ってこよう。
今夜が山かも―緊急事態に駆けつけた先生に言われ、その夜、親族が集まったが、皆が見守る中で父はすやすやと眠っていた。二度の大きな山を乗り越えてきた父のことだから、今度もまたやり過ごすだろう。ひと安心し、それぞれが帰路についた。それが、父との最期の別れとなるとは、夢にも思いもせずに・・・。

その未明、誰の手も煩わすことなく、Oさんは安らかに旅立っていた。
「人間らしい、最期を迎えられましたね」
杉山先生の最後の診察が終わった。傍らには、一度も使うことのなかった尿瓶が所在なげに置かれていた。
前日まで、普段どおりに一人でトイレにも行き、食事も自分で済ませ、数日前には、見舞いに訪れる姉のために、心づくしの料理献立表まで作っていたOさんだった。
これから、と気持ちを一つにしていた家族にとっては、狐につままれたような不思議な感覚が残った。しかし、最期まで威厳を保ち、家族と共に過ごした楽しい思い出に包まれ、眠るように他界することは、Oさんらしい幕引きだったのではないだろうか。今、年末年始に忙しさを増す家業に勤しむ家族をOさんは、きっと空から見守っていることだろう。除夜の鐘の音が厳かに響く夜は近い。

合掌