体験記2

体験記2

主人と家ですごした最後の4ヶ月余りは、私の人生にとってかけがえのない日々でした。

それは過酷な現実の中で、なぜか実におだやかで、平和で幸せな時間でした。 「多発性骨髄腫」この言葉を初めて耳にしたのは、私の仕事先にかかってきた主人からの電話でした。

建築現場監督をしている主人が現場でちょっとしたことで左上腕を骨折し1ヶ月間入院しチタン棒を入れる手術を受けたが、なかなか骨ができず検査を受けた結果の報告で 「多発性骨髄腫の疑いがあるので、大学病院に行くように言われた」という内容でした。

3日後、二人で大学病院の血液内科の診察をうけ「残念ながら悪性です。」と言われましたが、その時は全く意味が分かりませんでした。 図書館で医学書を読み血液の癌であることを知りましたが、主人には病気の詳しい内容は言えませんでした。

告知を受けてから3年9ヶ月間、病気との闘いが始まりました。 最初の2年近くは全く自覚症状もなく、普通に元気なのに現場を離れデスクワークについた主人は精神的にもちこたえられなくなり、お酒にはしりアルコール依存症になってしまいました。 その時が一番つらかったです。人格が変わり、私の力ではどうすることもできませんでした。人は身体が蝕まれるより、精神が蝕まれるほうがはるかに苦しいものであるとつくづく思います。

アルコール内科へ通院し、禁酒に努めました。会社の人達の力添えもあって、再度大きな現場を与えて頂き、復帰することができました。ところが、頑張っていた主人の身体に異常が出ました。竣工間近に、突然物が二重に見え出し、病院でMRI検査を受けた結果、脳の奥に6cm程の腫瘍が見つかったのです。 17時間の摘出手術を受け、無事に手術は成功しました。

それから7回の入退院を繰り返しましたが、主人の「生きよう」とする執念と勇気に励まされ、沢山の勇気をもらいました。それは尊敬に値する素晴らしい生き方でした。 手術後2年の間に、2ヶ月足らずでしたが社会復帰もでき、家族で海外旅行にも、二人で温泉やUSJにも行きました。 しかし現実は厳しく、どんどん身体は蝕まれ、ついには右足を病的骨折し、手術を受けたけれど歩くことを諦めざるをえなくなりました。 どんな状態の時でも、私が仕事を続けることを望んでいた主人が、「介護休暇」を取るという形で、やっと仕事を離れることを承諾してくれました。

漠然と考えていたことは、普通の病院ではなく、ホスピスに入れてあげたい。でもそれは末期と宣告されていたにもかかわらず、うんと先のことのように思えて実感がありませんでした。 インターネットや本で在宅介護のことは知ってはいましたが、遠い話のように思えていました。病気が病気だけに往診に来て下さる先生を見つけることは不可能に近いと思いつつ、倉病院の院長先生にお願いに行きました。

そこで杉山先生の存在を教えていただいたときは、感激で涙がとまらなかったことを、今でもはっきりと覚えています。 LDKにベッドを置き、和室との壁をやぶるリフォームをし、家での生活が始まりました。愛犬と子供たちと友達に囲まれ、実に穏やかな日々でした。何よりも痛みのケアを専門の先生にして頂けるという事は、とても心強く、安心できました。

一番思い出に残っているのは娘の結婚式です。「花嫁姿を見たい」という主人の希望を叶えるために、たくさんの人が協力して下さいました。立派な祭壇を組んで、神主さん(主人の友達)のもと、厳粛な神前結婚式をとり行い、ささやかな披露宴もベッドの上で参加でき、ホームウェディングは実現しました。 「きれいやねえ」と私が言ったら、主人は「あたりまえや」と言って嬉しそうに笑っていました。

その1ヶ月後主人は息をひきとりました…

亡くなった当日は、「今日、明日」と先生に言われていたので、帰って来ていた娘と息子は居間にふとんを敷き眠っていました。夜中の3時ごろ、主人の呼吸の音を聞きながら、ベッドの横に座って、呼吸も落ち着いているので、お酒でも飲もうと思い、酎ハイを作り、脱脂綿で口に含んであげたが、吸ってはくれませんでした。私はお酒を飲みながら、左腕の点滴をとめてあった絆創膏の接着剤の後を、つめで少しずつ剥がしてあげていました。 その時、突然息が止まりました。

すぐそばにいる子供たちを起こし、ベッドのまわりに集まり、「おとうさん、おとうさん!」と呼びかけたら「フウー」と息をし、そして2度と呼吸をするのをやめました。 家族と愛犬に見守られ、それは本当に穏やかな最期でした。 生きている時は、いなくなった後の不安がとても大きく、その事を考えただけで不安で悲しくてたまらなかったけれど、不思議と考えていたような、押し潰されそうなさみしさや、悲しさは感じないまま9ヶ月余りが経ちました。

できる限りの事をして悔いが残らなかったからでしょうか?それとも主人のなんらかの力なのでしようか? そして絶対に、人にとって最後に必要なものは愛だと思いました。 主人の生きた49年間は決して長いとは言えませんが、羨ましいほど幸せな人生だったと心から思っています。

主人の望み通り仕事を辞めなかったことが、今となってはすごく良かったと思います。 そして在宅介護を可能にしてくれた、介護休暇の制度や先生、看護師さんたちに感謝しないではいられません。