父の闘病日記

父の闘病日記

遠い昔、学生時代の授業風景
  「膵臓の膵という字は月(にくづき)に (くさかんむり)の下に卒業の卒という字を書きます。多くの人がこの (くさかんむり)を忘れて書いてしまうので注意しましょう。」という、講師の注釈とともに、急性膵炎は猛烈な痛みで大の大人でももがき苦しむということ、膵ガンは発見されても治療はできず、痛みに苦しみながら死んでいくしかないという説明が加えられた。高校を卒業して間もない私の一生の記憶として残された一コマであった。

家業である植富造園を14才の頃から兄と共に支え続けてきた父親は、ケンカ別れという形で50歳を過ぎ、遅い自立を果たした。 職人としての確かな技術はあったものの、経営者という新たな課題、残された土地の利権争い等々問題を対処していく中、急性膵炎を発症し、1ヶ月の治療を余儀なくされた。

前述の通り、まさしく猛烈な痛みに苦しんだわけではあるが、こちらは治療法も確立しており、入院中はぐちぐちと粘着性のある愚痴をこぼし、(膵炎気質というのだそうだ)母と妹を辟易させたが無事、快方に向かったのであった。

その後の数年は新たな顧客にも恵まれ、長年の実績もあり、母と二人で月1回の小旅行、毎週のゴルフツアーとかつてなかったゆとりのある生活が続いていた。その間に孫にも恵まれ、末っ子の弟の結婚も終え、父親にとって人生のまさしく円熟期にさしかかったところであった。

父親は酒も飲まず、禁煙を守り、植木職人で鍛え上げられた身体に加え、毎年の健康診断でも全く異常はなく、まさに健康そのものの人であった。最近は年のせいか肩や腰がだるいといっては私が勧めたダンベル体操を「これはいい。」と喜んでしていた父親であった。

2003年7月5日

母から急に電話が入った。昨晩身体がだるいと言っていた父親を無理矢理受診させたところ黄疸を指摘され、緊急入院したのだという。入院先の病院へ向かう途中の電話のやりとりの中、母親の様子がどうもおかしい。

一緒に来た妹と共に医師から告げられた病名は「膵ガン」であった。

膵ガンにより胆汁を通す管が塞がれ黄疸をおこしているのだという。黄疸を治すことはできても膵ガンは手術適応でないこと、放射線治療も化学療法もあまりメリットはないことを色々な症例を紹介しながら早口で医師は説明した。横で泣きはらしている母親。
残された命は早くて3ヶ月、もって半年。
「せめて痛みのない最後を。」と、私と妹は医師に言った。

病室の父親は戻ってきた私たちを見て不安げに笑いながら
「先生、何て?お父さんの黄疸そんなにひどいか?」と、孫と遊びながら聞いてくる。
「うん、黄疸がひどいらしいわ。これほっとくと大変らしいからとにかく黄疸が治るよう管を通すんやって。」
父親はそれ以上は聞こうともせず、おなかがすいたと私の夫が買ってきた巻きずしをおいしそうに食べていた。

緊急に黄疸をとる必要があるという説明に反して土、日の休日体制、その後の様々な検査、病棟看護師とのすれ違い、最終的には口から内視鏡を使って胆管を拡げることが2時間かけてもうまくいかず、父親は病院不信になり、近大付属病院に転院となった。
入院道具一式の荷物を抱え、外来で半日近く待たされながら、またこの病院で初めから検査し直しなのか、紹介してもらった医師は今日は外来日でないという。また時間がかかるのか・・・。
「どうせ、ここも一からしなおしじゃ。」吐き捨てるようにつぶやく父親に励ます言葉も見つからず、家族全員に徒労と焦りがあった。
主治医として紹介してもらった水野先生は外来日ではなかったが前医との連絡ができており、診察をしてもらうことができた。
「それでは、本日胆汁を通すステンレス製の管を通しましょう。」と、実にあっという間に、何の苦痛もなく父親の胆管を拡げられたのであった。
その夜、父親にとって何の薬も必要とせず、安心して眠った最後の夜ではなかったろうか。  

黄疸が引くまでの入院期間中の父親は元気そのもので真新しい近代設備の整った病院で散髪をしたり散歩を楽しんだりしていた。一方で家族は死んでいくしかない父親の今後について、どのように接すればよいのか、また父親には誰が、どのような形で(膵ガンを)説明するのか悩んでいた。

黄疸の引いてきた父親はさて、次にこの黄疸がどこからきたのかをしきりに聞くようになっていた。父親は元来「医者なんて本当のこと話しよらん!」とのたまい、医師の説明にただうなずくだけで自分からは何も聞こうとしない。また、昔から「お父さんは恐がりやからガンなんて告知されるのかなん。最後まで黙っておいてくれ。」と我々に言っていた父親である。
一体どうしたものか・・・。  
インターネットを駆使してかなり詳しい膵ガンの情報を得ている傍らで「この黄疸がどこからきたのか」ということに対しては
「膵臓にできものができてそれが胆汁を通る管を塞いでいたから。」
という医師の説明そのままを伝えることしかできなかった。
しかし、この世は情報社会である。ある日、父親は週刊誌を開き、

「お父さんは、これなんやろ。症状みてもまず間違いない。もうわかったわ。」と話した。退屈しのぎにでもと買ってきた週刊誌に膵ガンの特集が載っていたのである。それまでにも泣きはらした顔の母親や、妙にぎこちない説明しかしない我々の態度にうすうす感じていたのであろう。
「治療法、ないんやってな・・・。発見されてからどれくらい生きるねんや・・?」
医師からは余命について明確な期間は伝えるべきではないと聞いていた。にもかかわらず、
「早くて3ヶ月。もって・・1年やって・・」私は言った。
「早くて3ヶ月か・・・。早よわかっていい。長い間苦しむよりずっとましやないか。気ぃ短いお父さんにもってこいの病気や。お父さんはな、死ぬのこわないで。・・これも運命や・・。」
隠していることのつらさから家族は解放された。一方で父親の本当の闘病生活が始まった。
  父親は胆管が拡がり、黄疸もとれ無事退院することができた。

子供のいない妹夫婦にとって両親は格好の遊び仲間であり、大人しか行くことのできない旅館や料亭にしょっちゅう遊びに行き、両親も何の気兼ねもなく妹夫婦の家に寝泊まりしていた。

妹の夫(愛称:社長さん。小さな広告会社を経営しているので。)は鮫のサプリメントを飲ませると免疫力が上がると聞いて「やめてくれ」という両親の頼みをよそに早速購入し飲ませてみたり、(その後どうにも吐いてしまう父親を見てようやく断念。)初めて弟夫婦を連れ立っての和歌山旅行、焼き肉ツアー等色々なイベントを楽しめたひとときであった。
一方で退院後、腰のだるさと痛みが徐々に強くなり、ボルタレン座薬を使用する回数が増えていった。父親の不安も増し、母親が買い物に行くのも「俺を一人にしておく気か!」と、怒鳴りちらし、夜間の痛みに耐えかね、夜、車をとばして救急外来に駆け込むこともあった。

8月11日

いよいよ座薬が効かなくなったことからモルヒネによる疼痛コントロールのため再入院。初日には「今までの痛みが嘘のようだ。これならまた旅行にも行ける。」とモルヒネが劇的に効き喜んでいた父親であったが結局5時間しか持たず、次のモルヒネ投与までボルタレンで痛みを紛らわすしかなく、痛みと共に過ごす父親の姿があった。特に夜間は孤独と共に痛みが増すようで看護師に痛みを訴えるものの即座の対応は難しく、父親は待つことの苦しみも加わった。個室であったこともあり、
「もうすぐ死ぬ人間の頼みや。聞いてもらえないか。」という言葉と共に夜間の母親の付き添いを頼み込んだが
「ここは病院です。今日、明日死ぬ方がたくさんいらっしゃいます。たとえ個室であっても立場はみなさん同じです。すみませんが夜間の付き添いはできません。」と看護師は悲しそうに、しかし毅然と答えられた。
確かにその通りである。そう言われたら従うしかない。昨晩も誰か亡くなったと看護師さんたちは走り回っていたそうだ。しかし、

「どんな痛みかわかるか?ナースコール押しても20分も30分も待たされてやっとボルタレン入れてもらえるだけや。それ以外は痛くても何もしてもらえない。この痛みに一人で耐えるのどれだけつらいか・・・。」
初めて泣き言を私に伝えた父親はもはや痛みのため寝ることができずにベッドで上体をおこしたまま、まんじりともせず、握りこぶしのまま丸くなっている。モルヒネのコントロールができていないことは明らかである。
痛みの対応に硬膜外麻酔の検討を看護師さんに言ってみたが「それはなんですか?」と逆に聞かれる始末。
 
ガン患者のホスピス。大阪にはあるようだがここは奈良県。どうしたらホスピスに入ることができるのだろう。予約で一杯と聞く。それに映画で見たようなあんなホスピスは所詮映画でしかないに決まっている。どうしたらいいのか・・・。

8月18日

外来終了後、やってきた水野先生は
「ここは消化器内科の病棟で(癌末期である)服部さんに対して十分なケアができるとは言えません。もしよかったらホスピスを考えられてはいかがでしょうか。」と大阪の院内ホスピスと奈良県で初めて在宅ホスピスを開始した医院(ひばり往診クリニック)があることを教えてくださった。

早速、社長さんがインターネットで調べてみると院内ホスピスでは大勢の面会は無理なこと、一応面会時間が決められていることなど、制限があること。在宅ホスピスなら24時間365日の体制があり、何よりみんなで見守られることから在宅ホスピスを利用してみようということになった。早速ひばり往診クリニックの院長である杉山先生に明後日面接をお願いする運びとなった。

8月19日 

父親は痛みのため一睡もできず、朝の4時頃「助けてくれ」と母親に電話をした。
急遽、ひばり往診クリニックに妹と出かけ、今までの経過を杉山先生に矢継ぎ早に話した。
急な訪問にも関わらず、先生は我々の説明に耳を傾け、
「モルヒネの量が全然足りていませんね。もしできるなら今日退院してください。退院次第、往診しますので。」
「先生、痛みの対処法として硬膜外麻酔があると聞いたのですが、それは在宅ホスピスでは可能なのでしょうか。」
杉山先生は「それは僕がもっとも得意なことの一つです。」と、おだやかに、にっこりと笑いおしゃったのであった。
妹と二人、喜び勇んで病室に戻ると父親は、脈も呼吸も弱く、意識朦朧として目は半開きのままベッドにもたれていた。
「なあ、お姉ちゃん、これ、大丈夫なん?これって危篤じゃないの?」と訊ねる弟妹に

「大丈夫、大丈夫。」と答えながら、何でここで死ぬの?死ぬのはおかしい。だって早くて3ヶ月って・・。まだ1ヶ月しかたってないやんか。こんな、こんな痛みにまみれて死なせたくない。死なせてなるもんか・・と思い続けていた自分であった。

退院の意志を伝えると水野先生は、父親は胆のう炎発症による危篤状態であり今、動かさない方がよいこと、抗生物質を投与しても意味はないことをおっしゃった。また、在宅で過ごすには家族で支える力が重要であることとともに病院で過ごすことだけが方法でないと、我々の思いを尊重してくださり、父親を退院させてくれたのであった。危篤状態である父親の退院を許可していただいた水野先生とそれをわかっていながら引き受けてくださった杉山先生に感謝の気持ちで一杯である。

退院が決まった父親は病院着を着替えることもできないまま、車に乗り込んだ。退院先は何と妹夫婦の家である。在宅になるとたくさんの人手がある方がいいと妹夫婦はすでに空き部屋に絨毯を敷き、ベッドを購入し、クーラーまで設置し、準備していたのであった。また父親も自分の家には帰りたがらず、半ば当然のように妹の家が在宅療養の場に選ばれた。 妹の家は1階が会社で2階が自宅になっている。ほとんど意識のない父親が最後の力を振り絞り一人でどうにかして階段をはい上がった直後に吐き、痛みにうめいていた。

午後5時

早速、ひばり往診クリニックの杉山先生と吉川先生が往診にきてくださった。注射、点滴と処置していく中で痛みがとれないと判断された先生は、難しい状況の中、素早く硬膜外麻酔を実施してくださった。その途端、「痛くないです。」父親は言い、あれほど苦しんでいた苦痛の表情がとれた。
その後、先生は家族を呼び、
「今晩が山でしょう。」と説明された。
やはり、苦痛が去った後、父親は呼びかけにも全く反応しなくなった。さらに脈も呼吸も弱くなった。不安のあまり杉山先生に電話をすると、先生は落ち着いた声で
「ご家族で見守られると決められましたね。」と、おっしゃり、はっと我に返った私は 「はい、そうでした。」と電話を切ったのであった。
覚悟しなければ― 。もう父親は苦しんではいないのだから。

午後7時

再び杉山先生が来られ、硬膜外麻酔を一時止め、昇圧剤を投与された。
「ご家族と、服部さん自身のがんばりを見て、治療方針を色々考えました。もう少しがんばってみましょう。」

午後9時

父親がはっきりと意識を取り戻した。すっきりとした口調で話し出した。
「痛み、全然ない。気分がすごくいい。」

まさしく、峠を越した父親であった。翌朝、早々に往診に来られた先生は、髭を剃り出迎えた父親に驚かれたご様子であった。
父親は胆のう炎治療のために点滴を毎日行うことになった。
痛みに苦しむことのなくなった父親はリビングの窓辺におかれたベッドに横たわりながら
「いのち、もろうたなあ。空が気持ちいい。あー元気になったなあ」と、しみじみ言った。
残された時間、様々な症状を訴える父親のため、妹は会社を夫に任せ、母と共に介護に専念することになった。私も職場に介護休暇を申請した。

とは、いうものの、父親は一人でトイレに行き、一人で寝返りを打ち、一人で出されるものを食べた。我々は父親の訴えに耳を傾け、薬を飲ませ、体を拭いたり、着替えたり、今、振り返ればままごとでしかないような、介護というより、父親とふれあいのできる楽しいひとときであったように思える。

妹の家での生活が始まってまもなく、十数年前にケンカ別れした父親の兄が夫婦連れだって見舞いに訪れた。当時を思い出しては怒り、しゃべり、そして笑うことのできた父親であった。また、自分の死後、得意先の仕事も長年共に過ごした方に引き継ぐことができた。

今年の夏は雨が多く、9月に在宅療養を始めてからは厳しい残暑に見舞われた。強すぎる日差しが弱まった夕方に、私や妹を連れ立って散歩に出かける父親は雑草を引き抜いて草相撲をした。穂の部分を結び、その部分にもう一方の茎を差し込み、引っ張り合うのである。微妙な力加減が必要らしく、私と妹は必ず負けた。うれしそうに「勝った。」と笑う父親の姿を見て、生涯忘れられない光景になるのであろうなあと思う私達であった。

一方で当時は吐き気やしゃっくり、腰のだるさ等の症状に不安になり、悩まされた。その度に杉山先生に相談し、その都度対処していただいた。在宅でありがたかった一つにあらかじめ処方された薬の変更も先生からの指示をすぐに仰ぐことができ、待つことがないのである。腰のだるさに対してもモルヒネの水溶液が処方されており、看護師さんが持ってくるのを待つことなく飲むことができ、苦しい時間は確実に減った。 日中は私や妹の介護を素直に受け入れ、下半身浴や浣腸、着替えなど素直にされるがままになっている父親であった。
夜は母と二人、手をつなぎあって寝ていたかと思う時もあれば、トイレや飲み物を求めて動き回る父親はその都度声をかけ起きあがる母親に
「いちいちうるさい!」と、枕を投げつける始末。
そのせいで母親は「お前達(娘)には言うことを聞くくせに私にはあんな態度で!!」と、すっかりむくれてしまい、父親にお尻を向けている。
それでも母親はしばらくすると機嫌の悪かったことも忘れ、「やっぱり、お父さんのそばを離れたくない。」と、付き添った。
持続する痛みから解放された父親はやがて来る死の不安から夜な夜な母親に死にたいと漏らしていたそうだ。
「今、電車に飛び込んで死んだら子供らに迷惑かかるから、車に乗って吉野山からダイビングするのはどうやろうか・・・。その時、お前、一緒にいってくれるか。」
「いいよ、お父さん。私も一緒に行くよ。連れて行って・・・。ああでも、今、車、娘の婿が乗っていってしまってないよ。」
「ああ、そうやったなあ、残念やなあ。」
そう言いながら、母親のそばで父親は安心して眠った。

先生の往診は毎日あり、点滴を打つと頭がぼうーっとしていやだという父親の訴えに耳を傾け、決して無理強いすることがなかった。ある時、父親が処置を終了した先生に聞いた。
「先生、この病気の最後は・・、最後はどんな風になるんですか?」
「・・・そうですね。だんだんと食べられなくなって、やせていきます。そして動けなくなって、うとうととまどろんでいることが多くなります。」
「最後、みんな苦しいんでしゃっろか?」

「僕が見ている限りではみなさん最後は穏やかな表情で逝かれます。苦しいかどうかは・・みなさん意識がほとんどないので確かめられませんが苦しんでおられることはないと思いますよ。ただ、もし苦しかったら、僕もやがて(あの世に)行きますからね、その時『あの時、苦しかったわ』って教えてください。あやまります。」
「こんなしんどかったら時々この2階の窓から飛び降りて死にたくなるんです。でも、そんなことするわけにはいかないし・・。」
「服部さんは男らしい方やから。とても男らしく振る舞われていますよね。でも、同じ男として甘えたい時も、苦しい時もありますわな・・。」
「いや、わしはすぐ弱音を吐くし、苦しいし、そんな男らしいことはないです。」涙ぐむ父親の手を先生はしっかり握ってくださった。
あれほど「医者は本当のことを話よらん。」と医師に心を開くことをしなかった父親が初めて本音を伝えた瞬間であり、初めて本当のことを聞けた瞬間ではなかったろうか。

9月7日

告知を受けて2ヶ月が過ぎた。在宅に戻って以来、父親は近所の方にも、友人にも会いたがらず、かわいがった孫娘にも会いたくないと言った。

今まで身体に触られるのをいやがっていた父親がマッサージが気持ちいいという。妹と社長さんに全身をマッサージしてもらい、気持ちよくなった父親はそのお返しにと妹の身体をマッサージしてやり、また疲れたとされなおし・・。
大きくなった子供達に囲まれた静かな時間を父親は楽しんでくれただろうか。

9月11日

脳転移の影響から日中も落ち着かず、頭が冴えすぎていらいらする、耳鳴りがするという症状を起こすようになった。その都度薬が処方され、症状が長引くことはなかったが、だんだんと食べられるものが少なくなり、日中、うとうとすることが多くなった。妹に
「なあ、あとどれくらいお父さん持つねんやろ・・。お父さんにとってあと生きる意味ってあるんかなあ・・。しんどいだけやんか・・。介護休暇も気になるしな・・。」と話すと、
「お姉ちゃんは!!自分のことばっかりやんか!私はお父さんにどんなになっても生きてて欲しい。半年でも一年でも長く生きられるなら生きて欲しい!」と激しい口調で返された。

日中よく眠るせいか夜間に寝られないことが多く、父親の不安は強くなった。また、薬を飲むのはもういやだと飲まなくなっていた。おそらく、飲みたくても飲み込むことができなくなっていたのであろう。夜の不眠に対しても先生は快く来てくださり、

「夜、たった一人で眠れないでいるのは不安やもんなあ。いつでも来るから。」(もちろん実際には処置はしてくださるのだが)父親はそんな先生の姿を見るだけでも安心して寝付くことができるようであった。

9月21日

「お腹痛い。」体のだるさや頭のイライラを訴えることはあっても痛いと言うことのなかった父親が久しぶりに痛いと言った。
胆のう炎の再発である。
この頃より自分一人では起き上がれなくなり、介助が必要になっていた。声もほとんど出ず、こちら側が聞くことに頷いたり首を振ったりして返事をするようになった。

9月24日

昨晩ひどい寝汗をかいたが、動かすことができなかったので下半身浴をして欲しいと母親が言う。立っていることもつらそうな父親にどうしたものかと悩んだが、とりあえず行う。
昼過ぎにベッドに移動した途端、父親は
「もうあかん、しんどい」と一言もらし、ベッドに倒れ込んだ。
呼吸も脈も弱まり、往診に来た杉山先生は
「おそらく、このまま逝かれるでしょう。」と、おっしゃった。
夕方になり、父親は手で合図をし、起き上がるのだという。

「お義父さん、重たいわー。これはまだまだいけますよ。」と、父親を抱きかかえ、よたよた運ぶ社長さんの姿に笑いながらリビングにあるマッサージ機に父親はもたれかかった。激しい息づかいの中、アイスクリームを一口、二口と食べるのである。むせながらも今度はかき氷を口に入れる。かろうじて聞き取れる
「お腹が痛い、眠りたい。」という言葉にベッドに戻すと、自分では起き上がることもできないのにベッドの端に座ろうとする。夜、再び往診に来てくださった先生はおっしゃった。
「普通、あのまま人は逝きます。だけれどもこうして起き上がり、動こうとされるのはまさしく服部さんの生きようとする力です。最後にある人はあきらめてしまってふんばる力はありません。」
最近は点滴を打ったら楽になるといっていた父親に最期にもう一度抗生剤を入れた点滴を打ってもらうことになった。

9月25日朝

おしっこがでたと手で合図する父親。もはや寝返りを打つこともできず、手足をわずかに動かすのみである。それでもパンを食べるかと聞くと懸命にうなづき、必死に食べようとする。急に「痛い。」と言ったかと思うと
「おーい、おーい。」と叫び出した。あわてて先生に往診を頼む。
その後は39度代の高熱と多量の汗、激しい息づかいの中、わずかに返事ができるのみの父親であった。
夜になり、状態の変わらない父親を見て末っ子の弟が先生に相談し、抗生剤の投与を止めてもらった。
「何とか、楽に逝かせてやる方法はないのですか。」
「『逝かせる』ことはできないけれどうとうと眠れるお薬を入れましょう。」
その夜、父親の子供である私、妹、弟の3人が付き添った。
「あんたらがついててくれるの。」と、安心したように母親は休んだ。

膝を抱えながら3人は「こうして姉弟3人で過ごすなんて20年ぶりくらいとちがう?」と少しうれしい気分になりながら世間話などをしていた。父親は深く、大きな呼吸をしている。時折小さな声で「おーい」とも「あー」ともとれる声を出す。
「はーい、ここにいるよー。・・・お父さん、苦しいんかなあ。こっちの声、聞こえてるんかなあ。」
「もう、こうなったら意識ほとんどないからしんどないんとちがうか。」
「それやったらいいねんけど・・・。お父さーん、私ら3人ここにおんでー。」
「おーい。」

9月26日

午前3時。父親の呼吸数は変わらず、深く、大きい。
「少し、寝ようか。」3人ともうつらうつらしだし、辺りは本当に静かになった。父親の呼吸と酸素吸入器の音が聞こえるだけである。
父親は、前より小さく「おーい」と言っている。

午前4時。様子を見に来た母親とともにまだしっかりと息があることを確認する。

午前5時30分。酸素吸入器をはずし、呼吸を確かめる。呼吸数は変わらないが小さい、浅い息になっていた。あわてて妹と弟を起こし母親を呼び、皆、父親の枕元に正座した。
午前5時31分。完全に父親の呼吸が止まった。
おだやかに微笑んでいる顔の父親の最期であった。

私にとってホスピスとは死を受け入れる医療だと思っていた。人間いずれは誰でも死ぬじゃないか。死んでいくことを認めながら過ごそうじゃないかと・・。
父親と最期を一緒に過ごし、ホスピスとは生き抜くための医療なんだと思い直した。

死んでいくのを看るのではなく、生き抜く力を最期まで見つめること。死にたい、つらいと漏らす父親の後ろにある、最期まで立とうとし、最期まで食べようとした力。あれほど生きたいという思いを私達だけで察し、思いに沿うことが果たしてできたであろうか。それを見抜いておられたのは杉山先生でした。
杉山先生、父親と私達家族を最後まで支えていただき本当にありがとうございました。
こうしたホスピスが奈良県全域に拡がることを願ってやみません。